織姫

娘三人持つと身上がうわむく

明治から大正時代にかけて大和村では
機織りが全盛を極めた。

小学高学年ともなれば娘たちは機織り
の技を仕込まれ早朝から夜ふ
けまでハ
タ音が消えることはなか
った。
織手の娘達は、朝5時ころから夜10時こ
ろまで織り続けて1日に1反織っ
て一人前
と言われ織賃は、農家にと
ってはよい現
金収入であった。

『村山三里じゃ娘三人いたら蔵が建つ」
とも言われた。

東村山から瑞穂にかけて,村山三里と言
われ機織りが盛んであった。

藍染めした木綿糸を絵柄に織り上げた木
綿絣が大部分で村山絣
と名付けられた。

村山大島紬
紬は、くず繭を綿状にして紡ぎ出し
絹糸で織り上げた布生地である。

奄美大島では、絹糸を泥染めするの
対し村山大島紬は「板締め染色法」

言って文様を彫刻した板で絹糸を
染め
る独特の染色法である。

織りあげるまでに全工程が、40工程あ
るとも言われている。
鈍い光沢を放ち表面に凹凸が生じ独特
の風合いをもつ。耐久性に優れ普段着
として親から子へと着継がれた。絹で
あることから外出着としてまたお洒落
着としても用いられた。
しかも今では、村山大島紬は、通産大
臣指定、東京都知事指定
の伝統工芸品
となっている。

 

朝鮮動乱とガチャマン景気

三河木綿
三河木綿の歴史は、古く江戸時代以降、三
河地方(愛知県東部地域)で綿の栽培と
綿織物が盛んとなり三河木綿という地域
ブランドとして多くの人に愛用された。
1950年(昭和25年)朝鮮戦争を機に日本
に景気拡大現象が発生した。


国連軍から各種製品、特に繊維製品(軍
服、毛布、テント等)の需要が多かった。
機織り機を一回ガチャンと動かせば1万円
お金が儲かったことから「ガチャマン
景気」
とも「糸へん(偏)景気」とも言
った。

母親は織子だった
父親は、40歳、私は13歳小学高学年であ
った。
父親が、織屋をやろうと言い出した。鋸
屋根(鋸の歯の形をした建物で屋根の半
分から陽が入る)を建てて自動織機2台
購入した。
正に人の噂で欲に目が眩んだ父親の単純
な思いつき
であった。
母親は,小学校を卒業すると刈谷にあった
豊田自動織機製作所に勤めた。
豊田佐吉が発明した機織り機の工場であ
った。
後に
子孫等が自動車産業のトップ企業へ
と変身をとげた

母親が、工場で働いていると時々、豊田佐
吉が見回って来たとよく言っていた。
父親は、母親のこの経験を生かして一儲
けしようと企んだ。

工場経営
2台の織機とは言え布に織り上げるまでの
工程
は簡単な織り柄でも同じ手間を必要
とする。
父親は、近所の同業者から工程や作業手順
を教わった。


染色した糸を経糸(たて糸)に緯糸(よ
こ糸)
を交差させることにより布地とな
る。

絵柄のデザインに始まり糸巻きから染色
(糊付
け)経糸の並べ具合(整経)、偉糸
のボビン巻
(シャトル用)等を織機にセッ
トする。


そして電源を入れ
るとモーターの動力によ
り天井から下がったベルトが回転して織機
が動きだしシャト
ルが左右に交差する。
布地が織り上げられていく。

当然、両親の労力では手間不足となり姉、
弟と
共に姉は勤め先、私と弟は学校の合
間にお手伝
と完全に家内工業となった。
父親の体調が悪いときは、織上がった製
品の反物を背中にくくりつけられた
私は
蒲郡の織物問屋に持ち込む。
製品の反物は、キズだ、汚
れだとケチを
つけられ値切られる。

反論する知識と勇気のない悔しい気持ち
を隠してしょんぼりと帰宅する。


そんな工場経営も1年半で終わりを告げ
た。

朝鮮戦争が、1953年(昭和28年)7月に
終わっ
た。
工場として建てた建物だけが残った。

 

 

 

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