夢を売る
持ち家はサラリーマンの夢
戸建てにするかマンションにするか迷うところ。
庭のある戸建て、管理しやすいマンションと夫婦
で揉める、都会ではマンション派が多くなり特に
交通の便、買い物、公共施設、病院等生活に便利
さを選ぶ傾向にある。
私の第二の就職先は戸建て販売を手がけている不
動産会社であった。55歳にして新入社員である。
32年勤めたいわゆる半官半民の三公社、五現業の
一つである公社は、仕事は地味で潰れることはな
いから給料は安いが真面目に勤めあげれば年金も
つくからと親は喜んだ。
第二就職先が不動産会社になったのは前の公社で
将来生活設計のため何か資格を身につけようとい
うことで通信訓練に応募したことにつながる。
中小企業診断士とか行政書士とかあった中から宅
地建物取引士(当時は宅地建物取引主任と言った)
を選んだ。
通信訓練を受講して試験に臨んだ結果、幸いにも
合格した。勤めが終わるとすぐに帰宅して夜遅く
まで勉強をした。47歳にして老眼鏡のお世話にな
った。
その会社は、バブル期に遺産相続が発生した地主
が売りに出した土地(農地)を購入し、建て売り
物件として分譲販売を予定していた。
横浜のその場所は、人気があり東海道線の駅から
徒歩15分と立地条件に恵まれた土地であった。
![](https://i2.wp.com/higashiyamato.net/deai/wp-content/uploads/sites/27/2021/03/fe7757c8bc2ea54b416170e429f15f61.jpg?resize=180%2C180&ssl=1)
35区画を3期に分けて土地を造成して建物を建て
分譲販売するもので5年かけて完売目標の販売担
当の責任者となった。
一次分譲販売は13区画である。
資格はもっていても実践経験のないことに戸惑い、
造成、建物建築担当責任者とタッグを組むことに
して横浜市役所への造成、建築等申請許可の手続
きを一緒について歩いて勉強した。
はじめに躓いたのは、造成地と隣地との境界であ
る。
これは、当然、土地購入に際して明確にしておく
べき条件である。ところが、いざ造成にかかると
隣地とのトラブルが発生した。いままでこの土地
の一部を表の道に出るために通っているいわゆる
私道として使っている。だから既得権として従来
どおりに通行させて欲しいと主張する。
また、赤道(あかみち)と言って古くから道路と
して利用されていた土地が敷地にされずそのまま
残っている土地で国有地であるので用途変更して
払い下げを受ける手続きが必要である。
土地家屋調査士と登記所や市役所などに出向いて
手続きに多大の時間を要した。
第1次販売の造成工事は、土地の形状が多少傾斜地
のため擁壁(石積みの土手)築造のため1年近くか
かった。1区画5~60坪(約165~198㎡)13区画の
整地が終了するのを待たず建物建築工務店を決め
設計から建物価格を含めて分譲価格を決定しなけ
ればならない。
上司からはバブル時期に買った土地の価格を回収
するためには建物価格を合わせて8千万~1億の分
譲価格にするようにとの厳命であった。
様々に議論の末に不動産鑑定士に評価を依頼する
こととなった。
この場合、分譲販売に当たって周辺の物件の相場、
いわゆる実勢価格、売れる価格の参考となる鑑定
評価である。周囲の環境、買い物、医療施設、学
校など生活に関連する施設の有無、反対に嫌悪施
設(周囲の人から嫌われる施設、墓地、廃棄物処
理場、風俗店等)の有無が評価条件として重要視
される。ただ一点気になっている分譲地の隣地の
一部が浜梨と言って梨畑になっており、春に病害
虫の消毒が行なわれることである。従って、直接
梨畑に隣接する分譲区画には2メートルのフエン
スを設置することにした。
建物業者と販売代理の選定
3社ほど面接をした結果、当時人気の軽量鉄骨の
建築業者S工務店に決定した。建物の建築と併せ
て販売代理の契約もした。
いよいよ分譲販売開始
入社して1年が過ぎていた。
販売事務所を分譲地の一角に設置してのぼり旗
や案内板を最寄りの駅から分譲地までとりつけ
る。土曜日と日曜日が現地案内に最適である。
朝日と読売新聞の朝刊に広告を掲載してある。
今回第1次販売区画は、13区画あり説明案内スタ
ッフを10人ほど張り付ける。
1区画の価格は、土地5~60坪(165~198㎡)建
物35坪~40坪(116~132㎡)3LDK 価格帯6千
万~7千万で売り出した。(鑑定価格を参考にし
た)
初日土曜日は20組、2日目日曜日25組と出足上々
であった。しかし、成約までにはいかず資金計画
を含め検討して出直すこととなる。
バブル崩壊して2年、銀行の融資もきびしくなっ
ていた。
平日は、現地事務所に2人説明案内人を常駐させ
金曜に新聞チラシを入れて、土曜、日曜日は、5
人ほどをモデルハウスを中心に張り付けた。また、
最寄りの駅から現地まで学生アルバイトに案内板
を持たせてアクセスの案内をさせた。
こうして立地条件の良さと湘南のイメージから価
格帯は高かったが徐々に分譲区画図に分譲済みの
バラの花が埋まっていった。
特に、S工務店のお客さん(買い換え希望)に紹介
して住み替えしたい希望者から成約となるケース
が数件あった。
こうして分譲販売が始まって土曜、日曜日を返上
して半年以上経過して大半が成約となった。最後
に残る1棟は売れるまでに時間がかかる。建築後半
年以上経過すると外壁を始め汚れがでてくる。ク
リーニングなど維持経費も膨らむ。
最終手段は、値下げすることになった。
![](https://i0.wp.com/higashiyamato.net/deai/wp-content/uploads/sites/27/2021/03/0968e9fd48f97dc79cab39669a498704.png?resize=180%2C180&ssl=1)
一次分譲販売が終わるやいなや二次販売が始まる。
こうして三次分譲販売が終了し、35区画の建売住
宅は完売となった。
心配していた梨畑の消毒もトラブルなく梨が熟す
頃には住民こぞって梨狩りをしていると聞いて一
安心であった。
その後、子会社に出向となり親会社が、バブル時
期に購入した土地の銀行からの借り入れの債務保
証をしており子会社を倒産させることとなった。
そのため会社整理のため抱えていた土地、建物等
の販売、整理を担当し残務処理までした。
既に60歳を過ぎていた。
さらにもう一働きと関連会社へ再々就職をし、前
の会社から不動産事業の移管すると、今度は、別
の関連会社との合併等と試練のサラリーマン生活
の幕引きまで時代の波(バブル崩壊)に翻弄され
ていった。