清水上砂台遺跡(旧石器~縄文時代)

清水上砂台遺跡(旧石器~縄文時代) 

 「清水上砂台遺跡」は2万年から4500年前(先史時代=旧石器・縄文時代)の東大和市内で代表的な遺跡です。
 空堀川の古い時代の位置を示す河原の跡や石の槍、カッターナイフ、石焼き料理跡(集石遺構)が発見されています。
 場所は、空堀川の南側・清水五丁目1084番地周辺です。

東大和市内の旧石器時代遺跡位置図 クリックで大

 現在では空堀川が広がり、新しい道路ができて、宅地化が進んているため、大まかな位置です。

清水上砂台遺跡位置図

 遺跡の現地を訪ねる場合は、清水大橋、清水橋を目当てにして下さい。
 下の図は武蔵大和駅方面から清水橋に来た現況です。路を直進すると新青梅街道に達します。

清水橋から新青梅街道方面

 遺跡は橋を渡った右側奥にありました。清水大橋の場合は武蔵大和駅方面から来ると橋を渡って左側になります。

清水橋と遺跡の位置 右奥に見えるのが清水大橋です。クリックで大

 清水上砂台遺跡は清水橋の左側(南)、三階建て建物の前方にありました。現地には表示もなく、私人の所有地で立ち入ることは出来ません。東大和市立郷土博物館に、発掘の状況が画像で展示されています。そこから、博物館の許可を得て紹介します。

空堀川の古い川の跡

空堀川の古い河原 『東大和市史資料編』3p79

 清水上砂台遺跡からは興味ある発見がありました。空堀川が少しずつ北側に動いた跡が辿れました。『東大和市史資料編』3は次のように説明しています。
「遺跡の北端の空堀川に面した場所では、現在の河道のはるか手前から地山が落ち込み、拳大(こぶしだい)からそれより大きな石が偏平な広がりを見せてびっしりと並んでいた。まさに川原という以外にはその性格を説明できないもので、はるか以前の空堀川の流れの跡と考えられる。川原の上に積もった土の堆積状況はかなり複雑な様子を示しており、何度かの洪水があったことが想像される。

 川原石の間からは、黒耀石(こくようせき)やチャートの破片が見つかっており、一部には人為的に打ち欠いたと思われる遺物もある。こうした遺物がこの遺跡の住人によって作られたのだと考えると、当時の人びとは、今の川とは違う流れの川を見ていたことになる。現在は両岸をコンクリートで固められてしまったが、一万年から二万年前の空堀川は、人びとの暮らしと密接な関わりがあったと想像できる。(p94)

清水上砂台遺跡で見つかった石器

旧石器時代の細石刃(さいせきじん)郷土博物館

細石刃 市立郷土博物館展示 クリックで大

 画像左側に細石刃があります。これを木の枝や動物の骨に埋め込んで狩りなどに使いました。

カッターナイフ(スクレイパー 削器)

『東大和市史資料編』3p78

 博物館の展示にもありますが、より見やすくするため引用しました。狩りの獲物の皮を剥いだり、植物を削ったりするときに使われたとされます。

ナイフ型石器

ナイフ型石器 市立郷土博物館展示 クリックで大

 現在のナイフと同じように使われました。これらの石器がどのようにして発見されたのか『東大和市史資料編』3は次のように説明しています。

 「地表面から五〇センチメートルほど下の関東ローム層の中に、大小の礫や石器が混ざり合うように大量に見つかっている。数メートル四方の狭い範囲に特に集中する傾向があり、そうした集中範囲が数か所、しかも上下にも数層に分れるように検出されている。

 一部の礫には煤(すす)のようなものが付着したり、熱を受けて赤く変色しているものも見られることから、火に関連のある遺構である可能性が高く、焼いた石を使った石蒸し料理の跡と考えられている。実際に料理をした場所だったか、それとも石焼きに使った石を一か所にまとめたものだとする考え方だ。

 礫群の周辺からは、石を意識的に打ち欠いた石器も見つかっている。ナイフ形石器はカッターのようにものを切ったりあるいは刺したりする石器だ。スクレイパーは、ものを削る石器。さらに槍の穂先となる尖頭器も見つかっている。石器の製品以外にも石器を作る時に出たと思われる破片が多数見つかっており、石器の製作や補修も行われていた可能性を示している。

 しかし、石器や礫群の他に、これらと同じ時代のものと思われる遺物や遺構は見つかっていない。石器以外にどんな道具を使い、どんな暮らしをしていたのかは謎のままだ。」(p79)

 不思議なことに、この遺跡からは土器があまり発見されませんでした。

縄文時代人の石焼き料理跡(集石遺構)

 清水上砂台遺跡では縄文時代の人が住んだようです。下図のような、焼かれた石がびっしり詰まった遺跡が3ヵ所発見されました。

清水上砂台遺跡 集石遺構 市立郷土博物館展示 クリックで大

『東大和市史資料編』3は次のように説明しています。

 「・・・、焼けた石を使って石蒸し料理をした集石遺構が三か所で見つかっている。礫群と違い、細かく砕けた石がすりばち状のくぼみの中にびっしりと詰まっていて、焼石の熱をより効率よく利用できるようにしたもののようだ。いつごろの人たちが造った遺構なのかを示す具体的な資料は少ないが、わずかに見つかった土器や、集石近くから見つかった打製石斧などから、縄文時代の中期ごろのものと考えられる。」(p80)

 東大和市周辺の縄文時代中期は今から約4500年前とされます。

旧石器人も縄文人も富士山が好き

 清水上砂台遺跡からは富士山がよく見えました。現在も遺跡の近くの清水橋、清水大橋からは正面に富士山が見えます。

清水橋からの富士山

 そういえば、東大和市域内の空堀川周辺の遺跡はどこも富士山がよく見えます。よっぽど好きだったのかと感心するくらいです。
 旧石器人や縄文人がここで富士山を見ながら生活したのかと思うと、時代の隔たりが一挙にとれます。

 (2020.02.10.記 文責・安島喜一)

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