蔵敷村の大井戸について

蔵敷村の大井戸について
 
文政四年(1821)のことです。
東大和地域一帯は猛烈な飲み水不足に見舞われ、その獲得に悩みました。
蔵敷村では、ついに、狭山丘陵の峰を越えて、
・ねずみ沢(現在は村山貯水池内)
・新田開発した武蔵野の原野が広がる南果ての野火止用水まで
飲み水を汲みに行きました。
 
そして、ついに、対策として大井戸を掘ったとという話です。
現在も大井戸のあった場所が残されています。

東大和市郷土博物館の南側の道を西に進み青梅街道に接する角

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青梅街道側からの大井戸のあった場所

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この経過を記したのが
「一村共用大井戸草創ノ事」(蔵敷村名主内野杢左衛門)の記録です。
(『里正日誌』4p98)
その概略を記します。
 
「一村共用大井戸草創ノ事」
 
文政四年(1821)は春から夏にかけて大旱魃(だいかんばつ)だった。
正月より七月迄の間に雨の降ったのは、わずかに二十一日、古今未曾有の旱魃。
村中の者は誰もが水に困って、野火留用水へ行き、水を荷桶(におけ)で運び、
又は、狭山丘陵を超えて鼠澤(ねずみざわ)の池の谷ツで雨水を求めて、
ようやく呑水(のみみず)にした。
 
大いに難渋したが、七月七日の夜になってはじめて雨がふり、
翌八日の夜には大雨になって、ようよう、安堵した。

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村の中心からのネズミ沢池と野火止用水の位置
 
ねずみ沢池は狭山丘陵の峰を越えた北側の谷ッにあり、特に蔵敷村辺りは峰が急でした。
また、野火止用水は南の極みで、武蔵野台地を新田開発した平地とはいえ
その距離は、東大和市南北の距離が4.3㌔として、野火止用水へは片道約3㌔あります。
その道を汲みに行き、持ち帰ったことになります。 
ここを桶に水を入れて運ぶとなると、さぞ、大変だっただろうと推測します。
 
「大井戸草創ノ事」に戻ります。
 
振り返ると
天明三年(1783)の七月六日は浅間山が噴火し、奥州筋は大飢謹になった。
天明四年(1784)は不作で、五六月は米価高く、
翌五(1785)年も旱損、凶荒だった。
天明六年(1786)正月元日は、午一刻(午後0時)より未一刻(午後2時)まで皆既日食で闇夜の如く、
三月十五日には夜に入り、桜に雪がつもり、それより引続き雨がなく烈風がひどく、
五月の末より雨が沢山降り、七月十二日には大雨で、洪水となり諸国共に飢饉となった。
その後、文化七年(1810)の冬より翌春にかけて雨が降らず、
正月十四日に雪がふり十七日には大雪だった。
文化十一年(1814)にも旱害、
同十四年(1817)五月より七月上旬迄雨ふらず、此時も井戸の水は涸れ果て、村中難儀した。
 
以上のような状況が続き、
僅か五年目で、今年(文政4年・1821)の大旱が起こっている。
このように、度々の旱魃があって、村中一同難渋な事、
どうにかして能き用水を得ようと常に心を苦しめていた。

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文政4年(1821)の被害状況 天候不順で、主食の中心であった稗、粟が大痛手を被り、飢饉救済の申し出を行っています。
このような中で大井戸は掘られました。
 
そこに、此度(このたび)の旱魃(かんばつ)、
なおさら日々に其事のみを思い、七日七夜考へつくして居たところ、
夢想の告によって、札の辻の裏手なる愛宕(あたご)の池とて
空地なる所が少しばかり水溜りある「じくたみ」(湿地)がある。
これは百姓武右衛門屋敷の前、
此所へ新に井戸を掘ったらと一途(いちず)に思った。

場所は図の大井戸の位置です。狭山丘陵南面の谷筋で、少し北側の家ではきれいな湧き水が絶えず湧き出ていました。

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村の人足を集め、分家の清蔵・坂下の惣七等をかしら分として、
差渡し四尺(約1㍍20㌢)の井戸をほり穿った。
六七尺(約2㍍)も掘れば忽ち清水が湧き出た。
それより次第に掘り進め、中へ三四人づつも這入って、中を広く掘らせた。
その深さ九尋(ひろ 約16㍍)。
実に夢想のお告の通り、果たせるかな、能き水を得る事ができた。
 
一同、水祝いのため、胴上げをし、手を〆め、皆々悦びあった。
この井戸の最寄は、御水帳面の字に「あら井戸前」と云う。
とにかく、昔より井戸にちなみがあったようだ。
・・・・・
以下省略
 
井戸が掘り上がりました。飢饉の中での水不足、その一部解消で
村人達の大喜びの様子が伝わります。
こうして掘られた井戸は明治時代にも伝えられ、現在もその名をとどめます。

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明治22年(1889)に書かれたと思われる「敷地の事」に、この実測図が記せられています。
結構大きな面積を占めていることがわかります。
大井戸はその後廃止されます。その時期がいつかは調査中です。
なお、江戸時代、この井戸の前に、高札場があったと伝えられます。
村人の集まる中心地であったことがわかります。
その後、いつしか、高札場は熊野神社前、内野家前と移転しました。
 
(2024.02.29.文責・安島喜一)