御霊大明神 地頭が大切にまつった

御霊大明神 地頭が大切にまつった
 
御霊大明神、今は狭山神社に合祀されています。
旧地は村山貯水池の湖底に沈みました。
その大明神、江戸時代の初期・宝永6年・1709年です。
時の地頭・溝口佐々衛門が大切にお守りしました。
供米、諸役の免除を約束して、その書類が残されています。
 
康平6(1063)年の創建を伝えますが、文書として現れてくるのは
次の文書です。

御霊明神御供米

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蔵敷村の内野氏が『里正日誌』に記録しています。
また、江戸時代末か明治初年、杉本林志氏が『狭山之栞』に写しとりました。
次のように筆写されています。

御霊明神供米覚

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両文書から
宝永6年(1709)9月に
・宮ノ下の下田5畝18歩を御霊大明神の御供米とし
・先年に従って、別当の屋敷、諸役を免除する
と溝口佐左衛門(下図の内堀地域を領した徳川幕府の家臣)が約束。
1畝は約100㎡ですから、500㎡の土地になります。
 
500㎡は貴重だった
 
この500㎡の田は、下田ですが貴重です。

御霊神社の旧地

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御霊大明神は上図の位置にまつられ、地名を「宮ノ下」と呼びました。
水田はほぼ中央を流れる石川の周辺に限って設けられ、
丘陵の斜面は畑や薪・炭用の低木が育てられていました。
水田用地は少なく、ギリギリまで開発が進み、1坪(3.3㎡)田んぼが営まれました。
日常の食料不足を補うこともあって、
早くも、1600年代には狭山丘陵の南側に広がる武蔵野台地に新田開発が進められました。
 
ところが、収穫される米は質が悪く、幕府は年貢を金納としました。
村人は農間稼ぎに追われます。江戸市中へ馬で薪や炭を運んでの駄賃稼ぎです。
こうした中での供米地の寄進です。
地頭も村人と共に御霊大明神を敬ったようです。
 
御霊大明神は鎌倉権五郎景政の霊をまつる
 
御霊大明神の祭神は明治3年の国への報告では
「祭神並びに勧請年月不詳」とします。
狭山神社の氏子会がまとめた『狭山神社』では
神武天皇、日本武尊を含む武八神、怨霊を慰める守護神としています。
 
内堀地域に住む人々は、鎌倉権五郎景政をあげ、地元の地誌『狭山之栞』も
「御料神社 字内堀にあり。鎌倉権五郎景政の霊を祭る」とします。
神社をお守りする別当は鎌倉権五郎景政の家臣と伝えられます。
八王子の御霊神社も鎌倉権五郎景政を祭神とします。
 
鎌倉権五郎景政は後三年の役(1083~1087)に従軍し、右目を矢に射られても
挫けなかった逸話が伝えられ、その後、相模で活躍する武将です。
この頃は武蔵に武士団が成立したときでした。東大和市周辺では武蔵七党の山口氏他が活動します。
これらの動向と何らかの関係があったことが推定されます。
 
別当は修験
 
もう一つの話題が、御霊大明神の社殿を護り、住民と触れ合った神主さんが
修験であったことです。
その系譜とともに、その記録が先に紹介した『里正日誌』に「覚」と共に付記されています。

御霊大明神別当

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即ち
御霊大明神をまつる別当は
鎌倉権五郎景政の家臣であった寺島小十郎が落髪して
聖護院末本山修験となり、
霊光山東光院と称し
東光坊、長慶と継いで常覚院と改称
現在に至っている。
 
そして、その後は
乗覚院・寺島小十郎は内堀(小十郎)に名字を改め
御霊大明神が狭山神社に合祀されるまで
別当を務めました。
 
氏子達は強かった
 
御霊大明神をおまつりする地域は「内堀」と呼ばれました。
村の中心的役割を担ったのが内堀氏で、
その出自は鎌倉権五郎景政の家臣であった寺島小十郎とします。

東大和市最古の馬頭観音碑 内堀村 と刻まれている

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内堀氏は、地域名に内堀を求め、内堀村の独立を目指します。
一例ですが、内堀地域の人々がまつった東大和市内最古の馬頭観音です。
その、正面に馬頭観世音菩薩の文字と寛政3年(1791)の年号を刻み
願主は「武州多摩郡内堀村 内堀金左衛門」と彫りこんでいます。
当時、内堀は「後ヶ谷村」の地域の一部でした。
地域的には区切られた区域で、後に一村独立の機会がありました。
内堀の人々は、内堀村を願ったようですが叶えられませんでした。
強い強い、願望があり、内堀村と主張する根拠があったとも推定しています。
 
修験は江戸時代末まで各面で大きな役割を果たしました。
よもやま話にも伝えられます。
御霊神社 内堀地域や修験については、別にまとめます。
 
 (2024.03.23.文責・安島喜一)