峡南橋

峡南橋
 
「狭南橋」(きょうなんばし)はどこにあったのですか?
出来ればその姿を見たいです。
との要望が寄せられます。
 
武蔵大和駅の近く、狭山丘陵南麓への道筋に架かる小さな橋でした。
江戸時代から活躍を続けた修験の持宝院(じほういん)
学問でも名をはせた大久保家へ入る路に架かっていました。

かっての峡南橋
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かっての「峡南橋」です。幅3.6㍍~4㍍、奥行き3㍍に満たない小橋です。
橋の下には狭山丘陵の谷間に形成された前川が流れ、
東村山市を経て柳瀬川に合流しました。
橋を渡って坂を上り詰めた左側に峡南・大久保宅がありました。

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図、右端の「持宝院」が大久保宅です。
中心の「オモテ」が村の名主宅(五十嵐一家)でした。
大久保家の先祖は武家で江戸に住み、
本山修験となり、持宝院を名乗りました。
『狭山之栞』には、天和 3 年(1683)「持寶院継目二付門善坊ヨリ下シ文」
が残されていることが記されています。
檀家には旗本も多く、久米村の地頭三枝氏(さいぐさし・6千石)もその一人でした。
その後、年代は明らかではありませんが、清水村に住み、
村人には修験として、加持祈祷と共に病魔退治、
農間稼ぎの際の江戸への付き添い、厄介者払いなど
様々な事業を通じ、崇められ親しまれていました。
 
その峡南橋はどこへ行った?
 
さて、現在はかって峡南橋が架かっていた川(前川)はありませんし、橋もありません。

かって峡南橋が架けられていたところの現在の状況
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現在は橋の架かっていたところが歩道になっています。
かっての歩道は車の走る部分を広げて車道となりました。
橋は廃止になりました。その理由はかって引又街道と呼ばれた道路の拡幅です。

2011.11.12.撮影クリックで大

土のところが、峡南橋の架かっていた前川です。川は地下に埋められた埋設管に移されました。
横切る鉄道が多摩湖線で、左側が武蔵大和駅になります。
峡南橋はその手前に架かっていました。西側から東村山市方面の状況です。

2011.11.クリックで大

道は、かって志木街道(または引又街道・ひきまた)と呼ばれ、
久米川、清瀬宿を経て埼玉県志木・引又河岸に通ずる広域な道路です。
都市化につれ、拡張が進められました。東側からの道路拡張の様子です。
峡南橋はスッカリ姿を消し、舗装道路になりました。
 

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素朴な峡南橋は歩道となり、周辺には白線が引かれました。
大久保家は明治の修験道の廃止と共に復飾して、神官となりました。
橋名になった峡南と云う人物はどんな人だったのでしょう。
『武野八景』など著作が多く、大久保家十二世柳光の弟です。
長くなるので、別に書きます。
 
 (2024.03.18.文責・安島喜一)