芋久保村地頭・酒井氏

芋久保村地頭・酒井氏
 
家康から知行地を与えられた酒井氏は、天正19年(1591)~文禄元年(1592)に
芋久保村(以後芋窪村)、高木村に配属されて来ました。
家康が秀吉から関東への移動を告げられてから、まだ、数ヶ月です。

武蔵国 徳川家康家臣団配置図

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江戸城から35㌔、多摩と入間郡の境
何が起こるかわらない不安定な中での直属家臣の配属です。
その中でも、余程、注意が払われたのでしょう、
他氏に比べて知行地が大きかったこともあり
酒井氏は芋窪村と高木村との2村に分けて
併給される方法で芋窪村に陣屋を構えました。

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酒井極之助は芋窪村(170石)と高木村(30石)を併せて200石
酒井 郷蔵は芋窪村(210石)、高木村(40石)を併せて250石
酒井家は計450石の知行人でした。
 
・酒井家と家康の関係です。
・酒井郷蔵と極之助の父親は酒井実朝(明)で、
 近江国・鎌波(滋賀県・鎌刃)の城主・土肥近江守実秀の子でした。
・落城後に家老の酒井姓を名乗って武田信玄に仕えました。
・天正10年(1582)、武田氏が滅びると徳川家康に仕えて、
・天正19年(1591)~文禄元年(1592)に芋窪村と高木村に領地を与えられました。
 酒井地頭は家族とともに芋窪村に居住し、陣屋跡と墓石が残されています。
・その後、郷蔵昌明(兄)と酒井極之助実次(弟)の子供達に領地を分けました。
・酒井極之助実次は元和9年(1623)より富士見宝蔵番の頭となっています。
・極之助実次は寛永2年(1625)または9年(1632)、墓所を高木村から江戸赤坂に移しました。
 寛永2年は、地頭に江戸の屋敷が割り当てられた年です。
 この頃から、地頭は村から引き上げ、江戸へ住居を移したようです。

酒井氏の所領

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・郷蔵昌明は元禄2年(1689)、公金費消の罪で改易、領地没収、以後幕府直轄領(天領)となりました。
 幕府が直轄領を増やす時に当たります。何やら郷蔵昌明の悔しそうな顔が浮かびます。
◎以後、幕末まで、極之助一家が芋窪村(170石)と高木村(30石)を併せて200石の領主となります。
◎また、注目すべき伝承があります。
 新編武蔵風土記稿は、
『石井出羽守は、ここの地頭酒井某と大阪御陣にも出たなりしといえど、させる記録はなし』
としています。石井出羽守は地元で最も古い創建伝承(慶雲4年=707年)を持つ豊鹿島神社神主の先祖です。
 酒井氏が豊鹿島神社の神主を伴って関ヶ原の合戦に参加したことがうかがえます。
◎煎本増夫氏は「江戸時代初期における旗本領の検地帳について」で
 寛永6年(1629)梅満(豊鹿島神社神主)は芋窪村の土地所有高2位、
 「神主でありながら武士的性格を持ち、また階級的には農民である梅満(石井)家のような
 土豪的百姓は寛永の初め頃には一般的に広範に存在したのではなかろうか」
 としています。『大和町史研究』8p7

石井家墓地に残されている酒井氏墓石

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酒井氏は豊鹿島神社の大旦那
 
・天正19年(1591)頃、酒井氏が芋窪村に配属されて、約10年後
慶長6年(1601)2月1日、豊鹿島神社が本殿の修理をした時
 奉造立鹿嶋大明神社頭一宇之事 大旦那 酒井筑前守 同強蔵
 と修理棟札が残されています。

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正保3年(1646)6月良辰(吉日)、修理棟札
 奉造栄鹿嶋大神宮御寶殿 大施主 酒井極之介重忠
 と相次いで施主になっています。
・郷蔵昌明が元禄2年(1689)、公金費消の罪で改易、領地没収される以前であることから
450石を領していたので、豊かで、大旦那でした。
 
200石で生活が出来たのか?
 
・ところが、約140年後になると事情は一変しています。
・酒井極之助は天保3年(1832)、金額は明らかではありませんが、
 支配地の芋窪村の村人に年貢以外の金子の負担の要求をしてきました。
・これに反した村人が鉦・太鼓を打ち鳴らして反乱を起こしました。
 なぜ、酒井氏はそのような要求をしたのでしょうか?
・村人の生活も大変ですが、旗本の生活も大変だったようです。
一例です。
 
◎隣接する東村山市の廻り田村富田家の例
 富田家は酒井家と同じように200石の知行を幕府から得ていました。
 生活に窮したのでしょう、宝暦7年(1757)、
 年貢の10年間先納と金5両の借り上げを村人に要請します。
 村人は受け入れました。しかし、10年たっても返還されず、
 明和4年(1767)、村人は返還運動をする事態になり
 訴訟に踏み切ります。 
・浪人の生活の厳しさも伝えられますが、領主も相当に厳しかったであろうことがうかがえます。
 
◎同じ200石の領主酒井氏が 
・生活のため、農民に年貢の他いくらかの金子の納付を命じ
・鉦・太鼓を打ち鳴らしての反乱騒ぎとなる時代となったことも
江戸時代末、狭山丘陵周辺の村々の特徴でしょうか。
 
 (2024.03.12. 文責・安島喜一)