昔のお産(『東大和のよもやまばなし』から)
昔のお産(『東大和のよもやまばなし』から)
「えッ、それ、本当ですか・・・?」
「まさか!」
「信じられない・・・」
異口同音に疑問の声が上がります。
今では考えられないし、信じられませんが、東大和市の昭和の初め頃までの実際の話です。
『東大和のよもやまばなし』は次のように伝えます。
「産婆も産科医もいなかったころのことです。
お嫁さんが妊娠すると、あまりからだがつらくならないうちに、高木の塩釜様へ安産をお祈りに行きました。
そしてお守札と一緒にお燈明に使った短いろうそく、お饌米(せんまい)、麻ひもなどをいただいてきました。
麻ひもは戌の日に腹帯(はらおび)の中にはさんで身につけました。
麻紐については別に書きます。
嫁の立場は弱いもので、産気づいてからでも、しゅうとめに
「もう一度ぐらい畑へ行ってこい」
と言われると、つらいのをがまんして車を押して畑へ行った嫁もありました。
産室は北側の暗いへやが使われ、たたみをあげてしまい、わらを敷いた上にボロ布を何枚も敷きました。
いよいよお産が始まると、家族は塩釜様からいただいたろうそくに火をともし、
この灯明の燃えつきない内に出産するように祈りました。
産婦は腹帯の中の麻ひもを首にかけたり、かみの毛の根元を麻で結(ゆわ)えたり、
しばったりして、うつぶせになってお産をしました。
中には、ふとんを何枚も折りたたんだところに寄りかかってお産した入もありました。
赤子をとりあげるのは、しゅうとめや近所の老婆、分家の老婆でしたが、
時には間にあわず、主人がとりあげたこともありました。
よほどの難産でなければ医師を呼ばず、東村山市から医師が来た時にはどうにもならなかったこともあったとか。
なにしろ素人がとりあげるので後産が出ないのがわからずに、大出血で母親が死んだことがあったりしました。
出血がひどくて顔色が変ってくると、塩水をのませるとよいと言ってのませたのも、
今考えると、リンゲル注射にかわる老人の知恵(ちえ)だったようです。
胎胞(たいほう)が下りず、産婦が亡くなってしまった例です。
安政2年・1855 杉本家文書
安政2年・1855 杉本家文書
無事に出産すると、実家から米二、三升と鰹節とが届けられます。
これは産婦の食べ物で、力がつくように、よくお乳が出るようにと、
塩釜様でいただいたお饌米をまぜてお粥をたき、
鰹節の削ったものに味噌あじをつけたものをおかずに食べさせました。
産後二十一日間は、ちぼく(不浄)だからといって、産室から出られませんでしたが、
これは産後の体をゆっくり休ませることになりました。
出産後のえな(胞衣)は、さん俵にのせて家のとんぼ口(出入口)に埋めました。
たくさんの人に踏まれて赤子が丈夫に育つようにという願いからだといいます。
(縄文時代からのしきたりが生きているんですね)
大和村の産婆第一号の本田スミさんが、昭和七年に開業した時、
産室の床下から寒い風がスースー上ってくるのに驚き、
たたみを敷かせてお産させたところが、しゅうとめが
「まるで天朝様のお産みてえだ。」
と言って逆に驚いたそうです。」(『東大和のよもやまばなし』p73~74)
苦労したお産、それだけに、嬉しさもお祝いも倍加したであろうことを
「人口減にならないようにお願いします」
と、塩釜神社の前に立つ度に、目頭に浮かべます。
本田スミさんとは、毎朝、門口で挨拶し、よもやま話を聞きに通いました。
(2024.04.02. 文責・安島喜一)