文政4年畑方旱損御見分書上帳

文政4年畑方旱損御見分書上帳
 
「稗と粟が主食だった」に記載されて居る「蔵敷村草損御見分書上帳」の原文です。
 
文政4年(1821)9月7日
蔵敷村の名主他村役人一同が代官平岩右膳あてに提出した「書上帳」の写しです。

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『東大和市史』(p201)はこの文書から「稗と粟が主食だった」に紹介した反別を表にまとめています。
秋作が稀にみる大旱魃によって収穫が皆無になる被害を受けていると報告しています。
その狙いは年貢の減免です。
 
 蔵敷分とあるのは当時、蔵敷村は実質は独立した蔵敷村でしたが、奈良橋村の一部であったという過去の経緯から、奈良橋村蔵敷分として、独立した村とは扱われていませんでした。
 
書き上げを提出した、その結果です。

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同年9月28日には
代官所から、本年夏秋分として納めるべき年貢を納めないのは、不埒至極(ふらちしごく)である。
来月10日までにきっと上納せよ。不納の村は厳重に吟味(調べて罰を加える)する。
との通知を受けています。
 
しかし、こんなことで、へこたれる村ではありません。
様々な運動を続け、何らかの成果を得たことが推測されます。
残念ですが、その資料は残されていません。
 
この年の天候はひどかったようで、蔵敷村では井戸水も涸れて、
野火止用水まで「荷桶」(にないおけ)で水を汲みに行っています。
このことは別に「蔵敷村の大井戸」に記します。
 
 
(2024.02.25.文責・安島喜一)