忍耐も限界の村人達  地頭に反乱 地頭も気の毒?

忍耐も限界の村人達
 地頭に反乱 地頭も気の毒?
 
天保3年(1832)、芋窪村での出来事です。
村人が領主様の申し付けに、鉦(かね)・大鼓を打ち鳴して
「ダメ、いやだ」を表明しました。
 
・村の指導的立場にある「年寄り」が指導して
・組頭、百姓代、小前と小規模ですが、名主を除く村ぐるみの反対運動です。
余程のことであったと推測されます。

当時の芋窪村は狭山丘陵の谷ッを利用して集落が形成されていました。南側に広がる武蔵野台地は早くから新田開発され、一面の畑でした。

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芋窪村は
・幕府直轄領の「天領」と
・旗本・酒井氏の支配する「私領」
・神社・仏閣の寺社領に分かれていました。
その私領で、領主の課金の要求に耐えかねた村人達の反乱です。
 
でも、結局は課金を支払うようになってしまいます。
一方で、領主側にも厳しい状況があることが伺え
当時の狭山丘陵南麓社会の一面を語る出来事のようです。
 
事件のあらまし

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・天保3年(1832)8月2日
・私領の名主である源八宅へ
・領主・酒井極之助の用人・村杉太右衛門が出張して来ました。
・用件は金子の要求です。
・村人達は飢饉に直面し、加えて度重なる要求で
 もう耐えられないと「勘弁方を歎願」しました。しかし
・用人は認めません。
・仕方なく、村人達は「内々相談の上」
・同月4日夜、鉦・大鼓を打ち鳴し大勢で騒ぎ立て
・名主源八宅へ押掛け、用人・村杉太右衛門へ強訴しました。
・用人は受け入れません。
・村人は用人に殴りかかりました。
・用人は驚き、源八の家の裏口より逃げ出し、
・同じく私領名主である高木村の庄兵衛方へ退避しました。

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騒動のあった場所(私領名主・源八)宅と
用人の退避した場所・高木村名主(私領)宅の位置です。
退避の道筋は現在の青梅街道などが考えられますが
狭山丘陵の中を走ったのではないでしょうか。
直線で約4㌔の距離があります。
騒動の一群に見つけられないようにするには
相当の負担があったと想定されます。
 
・用人は翌5日、酒井家宿所(江戸四ッ谷大番町)へ帰って、
・始末の委細を主人酒井極之助へ報告しました。
・酒井極之助はひどく立腹し、
・芋窪村の小前・村役人一同を呼び出し、
・大騒動になった。
ということです。
 
その後の動き
 
1芋窪村の鎮守豊鹿島神社の神主石井市之進の仲裁
 
・村の年寄由五郎始め組頭、小前百姓共一同は
・鎮守・豊鹿島神社の神主石井市之進に御詫を頼みます。
・石井氏は、仲介しようと領主酒井氏に事情を説明し許しを乞います。

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・酒井氏は通常の御詫では許さず
・大勢の者共の内、それぞれ軽重を分けて詫をすべしとのことで
・石井氏がそのことを由五郎を始め一同のものへ申し聞かせたところ
・村人達は、「軽き御詫にて相済ますべき」として
・それぞれの軽重を問うのは納得できない
・「一同の者ども御門訴・御駕籠訴・駆込(かけこみ)御願」をする準備をしました。
・石井神主はこれでは、私には取扱しかねるので
・「御奉行所にて御吟味御座候ても、
 何れとも御屋敷様御勝手次第」にして下さい。
と、仲裁を断念しました。

豊鹿島神社本殿 豊鹿島神社は慶雲4年(707)の創建伝承を持ち、酒井氏は慶長6年(1601)、正保3年(1646)年と本殿の修築を行っています。酒井氏と石井氏は密接な関係を持っていました。

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2芋窪村、蔵敷村、高木村名主への依頼
 
村人達はこれは大変と、今度は
騒動を指導した年寄り由五郎、組頭、百姓代がそれぞれに、
芋窪村名主(天領)、蔵敷村名主(天領)、高木村百姓代へ仲裁方を依頼しました。

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一例として年寄り由五郎が出した願い出を紹介します。
 
当時の村では、「年寄り」は相談役で、いざこざを取り鎮める立場でした。
それが、乱の指導者になっています。
 
・八月四日、御出役がおいでになって居るのを知りながら
・私が組頭、小前百姓一同へ申し勧め、乱妨狼籍におよびました
・軽くないことですので御公儀様へ御吟味を御願し、
・あなた様に御縋りして、一同御詫奉り願い上ましたが、
・容易ならないことですので御聞済にならないこと、恐れ入ります。
・勿論、私は年寄役を勤めている身分です。たとえ一同が騒立てても取鎮めるべきこともできず、
・結果、先頭にたって騒動を行ってしまいました。
・従って、これらの始末、重々恐入り、一言の申訳も御座いません。
・此上において、御奉行所様の御吟味をうけ、徒党頭取の罪に陥入れば、
・どのような御仕置をこうむるかもわからず、
・今更、後悔至極に存じ、幾重にも御詫び申し上げます。
・改心致しました証拠に、私は蓮花寺様の御弟子になり、髪を剃り、仏門に入りたく
・此段、御許し下されたく、心からお願い申し上げます。
・これをもって、御地頭所へ御詫を願いたくお願い致します。
・家名の相続は、御憐憫をもって、娘と養子に継がせたく
 お許し頂ければ有り難い幸せです。
・何卒、御取成をもって、願を聞き届け頂きたく、ひとえにお願い申し上げます。
 以上
と首謀の責任をとって隠居、仏門に入ることをつげ、許しを願います。

今も残る石川地頭の陣屋跡 石川氏は1591~92年、家康に任命されたとき、家族と共にこの地に住み、江戸へは馬で通勤登城しました。

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組頭、百姓代の依頼
 
組頭、百姓代も同じ3名主にそれぞれ、仲裁の依頼を提出しました。
年寄り由五郎とほぼ同じ内容で、異なったところは
・今度の事件についてどのように取り計らい下さっても、
 異議を云わず、遺恨も持ちませんい=課金は負担します。
・殴られた用人に治療代2両をお支払いします。
・源八(天領名主)の家が損傷をしていれば、いかようにも取り繕います。
と具体的に負担を明らかにしました。
 
結果
 
この事件は
・芋窪村、蔵敷村、高木村名主への依頼、仲介により
・課金の負担
・用人への慰謝料2両
・天領名主の家屋破損の修繕
で収まりました。残念ですが、人数などは不明です。

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問題は私領名主酒井氏側の実情です
 
酒井氏は家康の直属の家臣で、秀吉の命をうけ家康が江戸へ移った最初の時から
・1591~92年の間に、芋窪村、高木村に配属されて、
・関ヶ原の戦いには、豊鹿島神社の神主と共に参加した
・酒井領(私領 当時は天領・幕府領はなかった)の領主です。

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・当初は上表の通り、芋窪村に380石、高木村に70石計450石を給されていました。
・それが、240年余を経た今回の騒動の当時には
・芋窪村140 高木村60石 計200石となっています。
・他に領地がなく、幕府から何らかの給与もなかったら、生活は極めて苦しかったはずです。
これらについては、長くなるので、別に記します
この記事は『里正日誌』第四巻p356~365の記録を基にしました。
 
 (2024.03.08.記 文責・安島喜一)
 
 

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