明楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年)
明楽寺の番組会所と神奈川県所属(明治4年)
高木神社・塩釜神社の社殿の東側です。社務所との間に土蔵があります。
目立ちませんが、東大和市の明治初期を象徴する貴重な歴史遺産です。
・独立性の強い七つの村が集まって、現在の東大和市域のまとまりが出来たこと
・その共通の事務をとる場所が設けられたこと
の生き証人だからです。
東大和市域の村々が従来からの韮山県や品川県の入り組みから解き放たれて、新たに神奈川県に属したことによって実現しました。
変化激しい明治の地方制度
さんざんに東大和市の先人を惑わした明治の地方制度は大忙しで変わります。
明治4年(1871)7月14日、廃藩置県(はいはんちけん)の詔書が発せられました。
先に紹介した「府・藩・県三治制」(慶応4年・1868)を廃止して、「府・県」を設置(改置府県)するものです。
東大和市域の村々が属していた
・韮山県(代官領)、品川県(旗本領)は廃止する
・新たに東京府、神奈川県、入間県、埼玉県などを設置する
・東大和市域の村々はそのどこかに属する
ことになりました。
◎多摩については入間県に所属する動きがありましたが、港横浜との関係や時の神奈川県知事・陸奥陽之助宗光の意向もあり、神奈川県に属しました。
廃藩置県によって、
明治4年(1871)12月
・韮山県に属していた蔵敷村・奈良橋村・高木村(天領分)・後ケ谷村・宅部村・清水村(新田分)・芋窪村(天領分)
明治5年(1872)1月
・品川県に属していた清水村(本田分)・高木村(旗本領分)・芋窪村(旗本領分)は
◎神奈川県になりました。
◎併せて、戸籍編製のための戸籍区が再編され、東大和市域の村は
神奈川県第50区=蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水村
神奈川県第51区=芋窪(久保)村
と区分されました。
この背景には
・名主制度を始めとする旧来の村の仕組みの近代化、
・地方と国の新しい関係、県⇒戸長⇒村方の位置づけ、
・通達機能の迅速性、
・当面する戸籍編成の推進
などが考えられます。
名主の廃止、区番組制の実施(東大和市域の土台ができる)
明治5年(1872)4月、長年にわたって村の仕事を担ってきた
・庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・年寄等を廃止して戸長・副戸長とする
・戸長・副戸長はこれまでの事務とともに土地人民に関する一切のことを取り扱う
との改正が行われました。村の代表的存在であった名主は県の組織下の一員となりました。
これらと併せて、神奈川県では「区番組制」を取り入れました。
・明治6年(1873)4月、「区画改正の大略」を定めて、神奈川県内を20「区」に区分
・区を細分して「番組」を設定
・区には「区長・副区長」、番組には「戸長・副戸長」が置かれました。
◎東大和市域では、芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ケ谷、宅部、清水の七か村が
・神奈川県第十一区十番組となりました。これまで、別区域に含まれていた芋窪(久保)村が一緒になりました。
・七か村が一緒になって、現在の東大和市域が形成されました。
・十一区十番組の戸長に蔵敷村の内野杢左衛門、副戸長に高木村の宮鍋庄兵衛が任命されました。
・引き続いて「書役」(芋窪)、「村用係」(奈良橋村、宅部村、後ヶ谷村、清水村)がそれぞれの村から選出されました。
◎こうして、十番組構成の各村から、何らかの役を持った人物がそれぞれ代表格として選ばれました。
◎長年続いた「寄場組合」制度は廃止されました。
番組会所の設置
新しい組織は
・「各村」が独立して存在して、戸長他の役人がいる
・同時に各村を横断的にまとめる「番組」がある
という二重の構造を生みました。
・番組は、戸籍編成の事務や構成村全体に関する事務を担当します。
・会議を開いたり、事務を行うための施設が必要になりました。
そこで設けられたのが「番組会所」でした。
高木の明楽寺跡に建設し、明治6年(1873)11月8日に開所したと伝えられます。東大和市域内で広域の仕事が行われた最初の場所と云えます。
番組会所は連合戸長役場、やがて村役場に
番組会所はやがて、明治17年(1884)7月、高木村外五ヵ村連合戸長役場になります。会所跡の前に市の説明板があります。説明板には番組会所の説明はなく、連合戸長役場の説明が書かれています。番組会所は同じ場所にありました。
高木村外五ヵ村連合戸長役場については次に続けます。
比翼塚
この会所には、江戸南町奉行遠山金四郎ゆかりの武士、宮嶋岩保氏が勤務しました。次のように伝わります。
宮嶋氏は江戸幕府解体後、高木村から奉公に出ていた知人をたどって高木村に来ました。明治2年(1869)、明楽寺の庫裡に留守番として住みこみ、寺子屋の師匠として村人に読み書きを教えていました。神官になり高木神社の管理に当たりました。
しかし、番組会所が置かれた明治6年(1873)8月15日、病により亡くなられました。やがて奥様はあとを追います。村人達は明楽寺墓地に墓碑を建立して弔い、経過が『東大和のよもやま話』に比翼塚として採録されています。
この地は、幕末から明治にかけての貴重な話題が豊富です。
(2018.09.24.記 文責・安島喜一)