内堀の里(東大和市)
内堀の里
村山貯水池に沈んだ集落に「内堀」と呼ばれる地域がありました。狭山丘陵の峰と峰との間にできた村です。
春先は水のない田んぼにれんげの花が咲きみだれ、じゅうたんを敷きつめたよう。子供達はその上で遊び、寝っころがって流れる雲を見上げては夢をふくらませ、秋はどこの家にも柿の実がたわわになっていた。
と、伝えられます。豊かとは云えないけれど、穏やかな村でした。そのためか、「内堀部落の女堰」「馬方勝っあん」「行人塚」「こさ池とかゆ塚」「ぶんさんの話」「親分とバクチの話」など多くの物語が語り伝えられます。
人々はこの地を「内堀村」として過ごしていました。
ところが、この地域の村名に「内堀村」はありません。正式な村名は「後ヶ谷村」(うしろがやむら)と「宅部村」(やけべむら)です。しかし、内堀の里の人達は石仏に「内堀村」を彫り込むほど「内堀」の名を大切にしました。その里の歴史を辿ってみます。
内堀の里は村山貯水池の湖底に沈んだため、現在は、上の堰堤からの探すのが確実です。
下図はこの地域の移転前の状況です。
内堀の里は村山下貯水池のほぼ中央に位置します。中世、このあたりが宅部郷といわれた時は「宅部の内堀」として一種の独立した地域でした。それが、江戸時代初期に、隣接する杉本地域と一つになって「後ヶ谷村」と定められました。
やがて、領主の変更により、内堀地域は「宅部村」となり、杉本地域はそのまま「後ヶ谷村」を続けます。その経過を『新編武蔵風土記稿』と『狭山之栞』で追ってみます。地域の区分の仕方が異なるので、面積や戸数に差があります。
後ヶ谷村から宅部村へ
1『新編武蔵風土記稿』 (多摩郡は文化11年(1814)調査、文政5年(1822)完成)
宅部村として
宅部村は、宅部郷に係り、庄名は伝えず、村名の事をたずねるに、元は宅部の内、内堀と云ひし所なりしが、近き頃より宅部村とは唱ふるよし、江戸日本橋より行程九里半、四方の堺、東は清水村に続き、南は奈良橋・高木の二村に隣り、西は藏舖村に接し、北は山上を境として入間郡菩提木村に交り、東西およそ八町、南北十四町ばかり、民家四十二戸、
地形は北に山をうけ、なかば平かにしてなかば不平なり、土性、山根には少しく真土あり、この辺に水田を開き、山間の清水を用て耕耨(こうどう)の助となせり、陸田の方は野土なり、元は水口佐左衛門知行たり、後御料所となり、大屋杢之助支配せり、それも次第にかわりて、今は小野田三郎右衛門信利の支配所となれり、
小名 内堀(西北なり)林(東北を云)廻り田谷戸
山川 山 北の方にあり、中央にもあり、登り一二丁許、
水利 溜池四ヶ所 字小澤、宮ノ下、堂ノ入、廻り田谷戸等にあり、この外悪水堀三条、村内を通、
寺院・阿彌陀堂 字内堀にあり、堂三間半に二間半東向、本尊木の立像、長一尺三寸許、清水三光院の持なり、
なお、後ヶ谷村の箇所で
御領明神社 除地、六畝二十歩、小名内堀にあり、この辺を宮の下山根と云ふ、二間に三間の上屋を造りて、内にわづかなる宮をおけるなり、
とします。
2『狭山之栞』(地元の杉本氏著 江戸末現地探訪、明治9年刊)
多摩郡山口領狭山村之内宅部郷内堀
此地、旧後ヶ谷村の枝郷にして、慶長二年丁酉(1597)三月溝口佐左衛門の采地たり。元文三戌午(1738)六月、政五郎代上地す。此時、郷名を以て宅部村と改称す。維新の際、元の如く後ヶ谷村に合し狭山村と改称す。
戸数 二十八軒
阿弥陀堂 本尊阿彌陀如来は長一尺余の立像。村里の墓所あり。往昔は古澤の入口、西山に在りしを正徳年間(1711~1716)今の処へ引移す。
御料神社 字内堀にあり。鎌倉権五郎景政の霊を祭る。古時は御霊明神と唱へしが、延宝五年(1677)再検地のとき、御料所の鎮座なるに依て設楽孫兵衛の指示にて改む。維新の際、元の如く御霊明神と更称、中田六畝廿歩の除地は奉還し現今社地一反一畝廿歩官有地となる。
別当・常覚院は復飾して内堀宅美と改め神官となる。祭典毎年六月十五日。
末社 弁財天は市杵嶋神社に天王は八坂と改称す。
愛宕神社 旧別当は鎌倉権五郎景政の臣寺嶋小重郎、霊光山東光院と称し聖護院宮御末となり、その倅東光坊の後、常覚院長慶之を嗣ぎ、以後世々その職にあり。
小地名 古澤、川上、ハツキダ、膳棚、竹淵、御料前、日向尾根、杉山入、入山、拒山、寺嶋、源氏、小十郎窪、椚田
古 塚 行人塚、東光院塚、大塚、庚申塚、御判塚、塚の腰、送神塚、霊光塚
氏 族 内堀、榎本、中村、杉本、関下、山中、肥沼
と詳細に伝えます。
以上、二つの記録から、もともとは「内堀」と呼ばれた地域に、慶長2年(1597)、徳川家康の直属の家臣である溝口佐左衛門が地頭として配属されました。『新編武蔵風土記稿』は水口となっていますが、他の資料から溝口とします。
その後、元文3年(1738)に幕府の直轄地となり、その際、内堀地域は後ヶ谷村から分離して「宅部村」となったことがわかります。
ところが、内堀の人々は
元禄11年(1698)、庚申塔 武州多摩郡内堀村中 東大和市で二番目に古い。
寛政3年(1791)、馬頭観音 内堀村 内堀金左衛門 東大和市内最古です。
文化4年(1807)、子抱地蔵尊 内堀村女念仏講中
文化4年(1807)、地蔵尊 台石に 秩父、坂東、西国百ヵ所供養 内堀村
と内堀村の名を掘り込んだ石造物をまつります。元禄11年(1698)庚申塔の頃は、「後ヶ谷村」であり、その後は「宅部村」になっていますから、里人は内堀村によほど強い思いがあったものと推測します。
古村、きずな
内堀の里には御霊明神(明治後に御霊神社)がまつられていました。この神社の創建に関して、『東大和市史資料編 2 多摩湖の原風景』は次のように記します。
「内堀の鎮守御料明神社は、明治の神仏分離の際御霊神社となった。
後三年の役の勇者鎌倉権五郎景政の臣、寺嶋小十郎がこの地に棲みつき、主君の霊を祀ったのが創始と伝えられ、小十郎は内堀を名のり神社に奉仕したという。
子孫は本山修験の常覚院で神仏分離までは神社の別当を勤めていた。
その後の記録では祭神が経津主神以下武八神と、早良親王以下御霊八神となっている。
1923年(大正12)9月13日、狭山神社に合祀された。この時社殿は境内に集会所として移築されたという。」(東大和市史資料編 2 多摩湖の原風景 P99)
また、『多摩湖の歴史』は社伝として、「里人等神霊のあらたかであることを感謝し、康平六(一〇六三)年、祠をつくって同郷の総鎮守とし、御霊明神と称したと記されている。」(p204 成迫政則)としています。
明確な資料が整っていないのが残念ですが、東大和市内での神社の創建は豊鹿島神社の社伝が慶雲4年(707)8月を伝え、御霊明神はそれに次ぐ創建伝承を持つ神社となります。
中世には、徳治3年(1308)を始め数枚の板碑がこの地域にあったことが証言されています。(『多摩湖の歴史』p206)
内堀の里は中央を流れる石川・宅部川を挟んで、北側に集落、南側に水田を営んでいました。南北を峰に限られた地域で開発も限られていたため、生活は大変でした。『多摩湖の歴史』から一部を紹介します。
「内堀の耕作地は狭くて足りなかったので、青梅橋近くに畑を作った。年貢のかからない荒地に畑を作った。また山の中にも作った。原に出るには八幡神社わきの庚申坂を使った。この道は「鎌倉街道中の道」で、北にいくと山口観音や山口城跡へ
とつながっている。また所沢へも通じ、村山がすりを売り、糸や染料などを買って帰る道だった。(p290)
内堀は裏狭山といい、表との対抗意識が強かった。移転時、本村には表狭山出身の関田安右衛門氏など村会議員はいたが、移転の苦難にあう内堀部落には議員はいなかった。これではいけないというので、急ぎ三日聞の相談で、内堀福太郎氏を推して当選させた。」(p285)
これらの記述からも、内堀の里の人々が困難な中で、強いつながりを持って結ばれていることがわかります。
「内堀村」の彫り込みはこのような古い歴史と太いきずなの凝縮であると思われます。
湖底に沈んだ墓地の一部と庚申塔は、大正6年(1917)狭山の霊性庵墓地に
阿弥陀堂と墓地の一部、馬頭観音、子抱地蔵尊、丸彫地蔵尊は、大正8年(1919)、奈良橋の庚申塚墓地に
それぞれ移転して、現在もまつられています。
(2019.07.15.記 文責・安島喜一)
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