豊鹿島神社の獅子頭 市重宝

種 別   市重宝
所在地   芋窪一丁目2067番地 豊鹿島神社社殿内
指定年月日 昭和58年(1983)3月1日
指定理由  市内で獅子舞が奉納されていたのは、高木神社と豊鹿島神社だけであったと思われる。獅子頭は江戸時代後期の作と思われるが明治以降には雨乞いの神事に使われ、民俗資料としても重要である。

獅子舞が行われていた頃の豊鹿島神社

獅子舞が舞われていた頃の豊鹿島神社 平成3年(1991)撮影
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 現在は本殿、弊殿、拝殿とも社殿が全面的に建て替えられています。

 かって、豊鹿島神社では、9月15日に、この境内で獅子舞が舞われていました。その時に使われた獅子頭が市の重宝に指定されています。雄獅子2面(大小)と雌獅子1面の3面です。豊鹿島神社の拝殿内に保存されています。
 どんないわれがあるのでしょうか?
 どのような姿をしているのでしょうか?
 豊鹿島神社境内に立てられた教育委員会の説明板と市発行の『てくてく あんない』とから引用して紹介します。

豊鹿島神社の獅子頭

 一般に見る獅子頭は頭に角があったりいろいろな飾りが付けられているので、ここに紹介する画像とは違った印象を持たれると思います。保存されている実物は下図の通りで、木製の本体がそのまま残されています。

教育委員会説明板 クリックで大

上雄獅子大 下左雄獅子小 下右雌獅子 『てくてく あんない』p12
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高木獅子舞の例

現在高木で舞われている獅子頭 左から雌獅子、狐、雄獅子
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市の説明

 「この獅子頭3点は、江戸時代後期の作です。市内で、古くから獅子舞が行なわれていたのは、豊鹿島神社と高木神社のみでした。雄獅子二頭、雌獅子一頭で舞う風流系といわれる獅子舞で、高木の獅子舞と共通しています。

 豊鹿島神社の獅子舞は、明治時代に途絶えたため、今では過去に獅子舞が行なわれていたことを示す唯一の資料となっています。また、その後も昭和30年代まで、雨乞いの神事にこの獅子頭が使われており、民間信仰の一端を示す資料としても価値が高いといえます。」(『てくてく あんない』p12)

 風流系といわれるので、狭山丘陵周辺の地域で行われている獅子舞と共通します。
・悪病の退散と五穀豊穣を願って奉納されたのがはじめとされ
・二頭の雄獅子、一頭の雌獅子などで構成されます。
 この組み合わせは、二頭の雄獅子がスラットした一頭の雌獅子を取り合う流れがあったのではと推定され
・高木の獅子舞を思わせます。

 高木の獅子舞では二頭の雄獅子、一頭の雌獅子に狐が加わり
・勇壮、優雅、滑稽の入り交じった踊りが行われます。
・山場に来ると雄獅子二頭による雌獅子の奪いあいとなり、そこに
・狐がちょっかいを出し、焚きつけ
・騒動になります。
・そのうち、狐が二頭の雄獅子に追い払われる立場に変わり
・ひょうきんな踊りが続く中で
・三頭の獅子が解け合って
・狐とともにそろって舞い納める
 との筋道になっています。

 芋窪でどのような舞が行われたのか、ご存じの方、是非お教え頂きたくお願い致します。


高木獅子舞の舞納めの場面です。クリックで大

時代の変化の中で変容し、村山貯水池の湖底に沈んだ石川の里でも舞われた

 豊鹿島神社の獅子舞は9月15日に舞われました。その江戸末期の状況を『指田日記』(隣村・中藤村・指田家)が具体的に記録しています。日記には、天保5年(1834)1月~明治4年(1871)7月の間の出来事が記されます。

 ・天保5年(1834)9月15日、記載なし、ただし、9月23日~24日 鹿島明神の社地にて子供角力(相撲)が行われています。
  天保3年(1832)、天保4年(1833)と天候が安定せず凶作が続き、村人は大変な思いをした時代でした。
  その影響もあって子供相撲になったのかも知れません。 
 ・天保6年(1835)~天保7年(1836)記載なし
  この時期も、飢饉状況は続き、天保7年(1836)11月、狭山丘陵周辺の村々に打ち壊しの張り札が出されました。
 ・天保8年(1837)9月15日 芋久保に獅子舞(屋根葺き職人との出入りがあり混乱)
 ・天保9年(1838)9月15日 芋久保に獅子舞
 ・天保10年(1839)~天保11年(1840) 記載なし
  天保10年は、また天候不順で、各村で雨乞いをしています。
  作物不作、盗賊、浮浪者などで村が乱れました。
 ・天保12年(1841)9月15日~16日 昨今(きのうきょう)芋久保獅子舞
  2日続けられていますが、安政2年の記録から、16日は石川の里で舞われたことも考えられます。
 ・天保13年(1842)~弘化元年(1844)記載なし
 ・弘化2年(1845)9月17日 芋久保香具芝居(やししばい・田舎芝居)
 ・弘化3年(1846)9月15日 芋久保獅子舞 
 ・弘化4年(1847)~嘉永6年(1853)記載なし 
  疱瘡がはやる一方で対外情勢が緊迫し江戸湾の警備体制強化が進められます。
  嘉永6年には台場建設のため、狭山丘陵から松材の切り出しが行われました。
 ・嘉永7年(1854)9月15日 芋久保村獅子舞
 ・安政2年(1855)9月15日 月帯蝕 皆既 芋窪(芋久保)に獅子舞 ◎9月16日 石川獅子舞。夜雨
 ・安政3年(1856)~文久8年(1860)記載なし 
 ・文久元年(1861)9月15日 芋久保獅子舞 
 ・文久3年(1863)9月15日 芋久保に獅子舞
  国内は尊皇攘夷問題で騒然、薩英戦争、農兵の取り立てが行われ、蔵敷に調練場が出来ました。
 ・元治元年(1864)~慶応3年(1867)まで記載なし
  慶応2年薩長同盟、慶応3年討幕運動、大政奉還など慌ただしい年が続きました。
 ・慶応3年(1867)9月17日、18日、宅部で角力(相撲)
 ・明治元年(1868)9月15日、記載なし
 ・明治2年(1869)9月15日、記載なし 9月18日 芋久保に狂言
 ・明治3年(1870)9月15日、芋久保に十二座神楽

 獅子舞は激しく動く世の中の様々な出来事の中で行われており、時には休み、芝居になり、慶応3年以降は相撲、狂言、神楽などに変わっていったことが辿れます。
 注目は安政2年の記録です。
・9月15日 月帯蝕 皆既 芋窪(芋久保)に獅子舞
・9月16日 石川獅子舞
 と記されています。「月帯蝕 皆既」は、この日が皆既月食であった事を示します。「石川獅子舞」は現在の村山上貯水池にあった石川の里で舞われたことを示します。

 石川は先史、古代から人が住み、古い村があったことが推定される地域で、江戸時代の初めに芋窪村(芋久保)の一部になりました。豊鹿島神社は丘陵の南にありますが、獅子舞はこの峰を超えて舞っています。両地域が固い絆で結ばれていたことを示すようです。石川からは豊鹿島神社の奥の宮が拝せたとも思われます。

 衣装をそろえた舞の一群が峰を越す、その調べが聞こえてくるようです。

石川の里 クリックで大

 保存されている獅子頭は、あらかじめ神主さんにお話しすれば快く拝観できます。

 (2020.05.08.記 文責・安島)

 豊鹿島神社

 石川の里

 高木の獅子舞

 市指定文化財