鹿島台遺跡3 東大和市史跡
鹿島台遺跡3 市史跡
鹿島台遺跡2 市史跡からの続きです。
3地区
・3ー3地点、集積遺構
・実に興味ある遺構です。
・焼け焦げた石が集まって転がっています。
・旧石器時代のバーベキュー跡を思わせます。
・ところが、この地から発見された土器と石器が縄文時代の早い時期のものであることがわかりました。
3地区 縄文土器と石器
調査報告書は縄文時代前期末~中期前半(6000年~5500年前)としています。
縄文時代の初めから中期にかけて、このような調理をして生活していたことがわかります。
旧石器時代のバーベキュー跡は空堀川のほとりに残されています。
4地区
・4-3地点
打製石斧
・4ー5地点
土器(中期初頭)と石皿(いしざら)
土器の形式は五領ヶ台式(ごりょうがだいしき 縄文時代中期初頭)とされます。調査報告書p10)
鹿島台遺跡のもつ重要性
以上の発掘経過と発掘の成果から、遺跡調査会は次のように記しています。
「・・・この台地で人々の生活が営まれたのは,縄文時代前期未葉(約6000年前)
から,中期中葉(約5000年前)までの期間であることがわかった。ただし,今回の調査は
あくまでも部分的なものであり,昭和36年の表面採集調査で縄文時代後期の遺物が発見さ
れていることから考えると,未調査部分にこの時期に相当する遺構や遺物が存在すること
も十分に考えられる。」(『鹿島台遺跡 調査報告書』p10)
広大な狭山丘陵には多くの遺跡があり、縄文時代中期には縄文銀座と云われるほどたくさんの縄文時代の人々の生活跡が残されています。
東大和市域では縄文時代の草創期と晩期の遺跡が発見されていませんが、鹿島台遺跡は、縄文時代全期を通じての生活の状況をたどれる可能性がありそうです。
さらに、調査区1で発掘した住居跡から発見された石器は、
・石鏃(せきぞく 矢じり)の数が少なく
・多くは石斧(せきふ)でした。
これらから、「狩り」よりも植物の「根堀り」が主要な生活要素になってきていることを伺わせ、
◎単なる狩猟・採集社会ではない、ある期間の定住へと時代の変化を感じ取らせます。
成果を市の重宝に指定
多くの可能性を秘めた鹿島台遺跡は
・遺跡全体が市の史跡
・第一地区の住居跡から出土した土器や石器が一括して「重宝」に指定しています。
・重宝についてはページを改めます。
この画像の右側からは富士山がくっきり見えます。
先史時代の人々は、富士山の見えるところを生活の場に選んだようです。
( 各図は東大和市郷土博物館の許可を得て引用しています)
(2022.04.30.記 文責・安島)
市重宝 鹿島台遺跡住居跡の出土物
八幡谷戸遺跡