韮山反射炉
冬紅葉
12月初めは、まだ紅葉が色づいています。温暖化の所為か紅葉が長く楽しめる冬陽の中、伊豆の国を訪れました。


代官、江川太郎左衛門
私が、代官、江川太郎左衛門を知ったのは,10年前、東大和の郷土史研究者の故・安島喜一さんの公民館での歴史講座でのことでした。
江川太郎左衛門は、「里正日誌」(東大和旧蔵敷村及び周辺村落の名主内野杢左衛門が名主の仕事を文書に記録したもので年度順に編成した書類等)にもあるように幕末の伊豆韮山代官で、江川英龍という実名をもつ幕臣でした。上記の地図にあるようにその統治地域範囲は、今の静岡、神奈川、山梨、東京の多摩地域にも及んでいました。江川家第36代当主となった英龍は、韮山代官に就任し、伊豆、駿河、相模、甲斐、武蔵にある幕府直轄地(天領)の支配を担当する行政官でした。
反射炉と品川台場の築造
嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航を受け,幕府は、海防体制の抜本的に強化対策に乗り出さざるを得なくなりました。そこで,以前から幕府に様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として反射炉と品川台場を築造するように決定したのです。
江川は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の調練を施した農兵制度の導入など一連の海防政策を幕府に進言していました。
反射炉は、金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で,内部の天井がドーム状になった炉体部と煉瓦積みの高い煙突からなっています。石炭などを燃料として発生させた熱や炎を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銑鉄を溶かす事が可能な千数百度の高温を実現します。このように熱や炎を反射する仕組みから反射炉と呼ばれたのだそうです。
お台場
お台場は、外国の軍艦から江戸の町を守るため今の東京湾に6つの人工島を築き韮山反射炉で作られた沢山の大砲が備え付けられました。現在は、第三と第五台場の二つが史跡として保存されています。

ペリー来航に東大和蔵敷にも農兵取り立て
江戸時代、農民は農業に専業し,武器類を持たないことが原則でした。幕末、ペリーが来航し、ついにこの原則は破られ,文久3年(1863)10月江川支配の幕府直轄地に限って「農兵取り立て」の決定通知が出されました。農兵には名字帯刀を許可しないが、壮年強健の者を指定し農業を営む間に軍事訓練(砲術)を行い,有事には兵卒として動員するというものです。村々の20~30歳前半の若者がとりたてられて,蔵敷三本杉近くに設けられた訓練所にて射撃訓練が行なわれました。

江川邸
韮山反射炉から車で5分ほどのところに江川家住宅と韮山役所跡があり国の史跡に指定されています。主屋を中心に付属の書院、仏間、門、鎮守社のほか竹林など敷地の面積は約1万2千㎡あると言われています。



先人の功績や史跡の保存を讃える
伊豆の国市には、江川英龍や韮山反射炉を守り愛する会がありました。先人の功績や史跡の保存を始め多くの人にその大きな成果から日々の生活までを見ることが出来ました。中には,朽ち果てていく施設も見受けられましたがその維持、管理、保守、修復は、多大な費用もかかると思います。180年の経過を経て未だ健在な姿を見ることが出来たことは,関係者の歴史を重んじている証と思いました。
伊豆の国市
江川英龍公を広める会
韮山反射炉を愛する会
