2017年8月25日 / 最終更新日時 : 2023年6月19日 musashinoaj 7近世 細長い村ができた 玉川上水・野火止用水の開削 承応3年(1654)玉川上水が開削され、次いで、翌承応4年(1655)野火止用水が開削されました。茫漠たる武蔵野の原野に一路の水路が通りました。これを待ち受けていたように、翌年の明暦2年(1 […] 共有:Tweet
2017年7月15日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 7近世 おんじー!? 東大和市の現・狭山地域が後ヶ谷村(うしろがやむら)と呼ばれていた江戸時代の話です。 地元の杉本家に伝わる貴重な古文書に宗門帳があり、当時の家族構成がわかります。 寛政6年までは中核となる家族構成は4人から6 […] 共有:Tweet
2017年7月14日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 7近世 飢饉で子どもが産めなかった 文政年間(1818~1829)の村(蔵敷村)の姿 子どもが生まれなくて、村は維持できたのか? ずっと疑問に思っていたのが左の表です。 江戸時代の村の人口の増減と自然条件の関係はどのような実態だったのか? そ […] 共有:Tweet
2017年7月13日 / 最終更新日時 : 2020年9月14日 musashinoaj 7近世 江戸時代の村の人口(蔵敷村) 江戸時代、村の人口はどのように推移したのでしょうか? 東大和市を構成していた村の一つに「蔵敷村」(ぞうしきむら)があります。 狭山丘陵に刻まれた谷ッに本拠を構え、その南に広がる武蔵野の原を新田開発した村です。 […] 共有:Tweet
2017年6月4日 / 最終更新日時 : 2020年10月8日 musashinoaj 7近世 天保の飢え人 天保年代(1830~43)は、寛政・天保小氷期と云われるほど、寒冷化が特に厳しい時代でした。 冷害に見舞われ、作物の不作が続き、農村は飢饉に襲われました。 東大和市域の村々は猛烈な飢饉により、下記の表のような飢人が […] 共有:Tweet
2017年5月29日 / 最終更新日時 : 2024年3月1日 musashinoaj 7近世 稗と粟が主食だった 江戸時代も末、東大和市の農業の実態です。 蔵敷村に残された里正日誌によって少し分かってきました。 天明年間(1751~88)の天災~不作~飢饉は有名ですが、文化、文政期にもそれは続き、農村は疲弊しました。 文政4 […] 共有:Tweet