飢饉で子どもが産めなかった
子どもが生まれなくて、村は維持できたのか?
ずっと疑問に思っていたのが左の表です。
江戸時代の村の人口の増減と自然条件の関係はどのような実態だったのか?
その厳しさを東大和市蔵敷の内野家に伝わる宗門人別帳の記録から紹介します。
蔵敷村の人口の増減を、病死、縁組み、出生をもとに整理した表です。
この村は石数215石、平均して概ね230人前後の人口の村です。細かくは江戸時代の村の人口(蔵敷村)を参照下さい。
・文化2年(1805)には、病死が1、婿入りが2、出生が9、差し引き10人の増。
人口は7名が減になります。
・文政11年(1828)病死4、他村からの嫁入りが2人、出生が8人、他村への嫁ぎが1人で5人増加しています。
文政7年から3年間、出生がありませんが、その背景に、何があったのかの問題です。
文政4年(1821)9月、蔵敷村は天候不順で作物が実らず、その被害状況を直接検分に来るよう代官に申し出ています。
その被害状況は表の通りです。主食であった稗、粟が皆無か大痛手を被っています。
・また、文政5年(1822)も天候不順で、雨が多く、拝島村では、「溢水にて田方残らず川欠にまかり成り」の状況になっています。
・蔵敷村では78人の飢人が発生、稗12石9斗6升の施穀を実施。廻り田村でも諸作物が不熟で、飢餓農民が発生しています。(東村山市史上p804 文政里正日誌)
このような状況から、子供を産むことが難しくなったのか、出生は0の状況になっています。
治安の乱れから、広域的な区域内での取り締まりを可能とする基盤づくりが必要になったようです。
中心になる村を「寄場」(よせば)とし、周辺のいくつかの村を集めて「寄場組合」を形成しました。東大和市域では、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部、清水村が蔵敷村組合、芋窪村は拝島村組合に所属することになりました。概要は別に記します。
寄場組合村や関東取締出役が機能したかどうかは不明ですが、飢饉から2年を経てようよう村は落ち着いたのでしょうか、少しずつ ですが人口は増加に転じています。