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江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)

江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)  今では想像も出来ませんが、狭山丘陵の麓から南側は人家も何もない、武蔵野の原野が広がっていました。そこに一筋の道が出来ました。そのお話です。  東大和市周辺には、狭山丘陵の …

村に来た地頭様

村に来た地頭様  家康の家臣が村に来たのは、江戸市中が未整備なことと、つい先日まで後北条氏支配であった村々の治安維持が目的であったと考えられます。地元では「領主様」「地頭様」と呼ばれました。  「泣く子と地頭には勝てぬ」 …

村に地頭がやってきた

村に地頭がやってきた  天正18年(1590)、小田原合戦が終了、秀吉は家康に関東移封を命じます。家康は早くも7月から8月にかけて江戸に入りました。東大和市の旧家の杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没 …

村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転

村山貯水池(多摩湖)に沈んだ古村の移転  大正4年(1915)、石川の谷(上貯水池)から移転が開始されました。全162戸、大半が丘陵の南側(表)に移りました。家財道具は丘陵の坂道を、喘ぎあえぎ、家族中で大八車の後を押して …

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の住居  村山貯水池に沈んだ地域には、162戸の家々がありました。161戸との記録もありますが、市民グループの調査により実際に復元した数は162戸でした。その配置は下図の通りです。 & …

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の食生活   村山貯水池の湖底に沈んだ村々は古代の住居址を残します。また、寺社は中世の創建を伝えます。  さらに、南麓の地域には僅かの水田しかなかったのに比し、この地では、比較的多くの …

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業

村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業  湖底に沈んだ村は周囲を山林で囲まれ、中央を流れる石川・前川に沿って水田が営まれ、山林との間に畑地が広がっていました。その状況は下図と表の通りです。  狭山丘陵の大きな谷に成立 …

村山貯水池(多摩湖)買収対象地域の集落

村山貯水池(多摩湖)買収対象地域の集落 集落  村山貯水池建設に伴い買収対象地域となった集落はどのような状況だったのでしょうか。  住居戸数は162戸(161戸説もあります)でした。当時の村々の総戸数は771戸でしたので …

村山貯水池(多摩湖)の用地買収

村山貯水池(多摩湖)の用地買収 1買収価格の提示  大正3年(1914)1月10日、用地測量のための詰め所が設置されると、地元の村人は素早く反応し、1月22日、移転地住民大会を開き、共同して対応することを決めました。   …

村山貯水池(多摩湖)移転地住民大会

村山貯水池(多摩湖)移転地住民大会  大正3年(1914)1月10日、芋窪村蓮華寺境内に用地測量のための東京市の職員の詰め所が設けられました。その動きを目にして、東大和市域の村人達は行動を起こします。  ・大正3年(19 …

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