百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で結え・・・

百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で結え・・・ 
    50年余も続けられています この通達!
 
天保13年(1842)10月13日、「百姓風俗についての御触」が来ました。
天明8年(1788)2月14日にも「髪も藁にて節倹御触」が発せられています。
書き出しの文言をご覧下さい。ほぼ54年前と同じです。
 
確かに天明時代は飢饉、今回の天保時代も
米価高騰、農民一揆暴発、コロリ流行、諸外国の突っ込みなど
幕府は対応に追われます。
 
それはわかるにしても、ちょっといかがでしょうか!
約半世紀、江戸時代って、こんなものだったのか、との
“誤解”?を生みかねません。
蔵敷村に残された『里正日誌』の記録です。
この度発刊された第6巻におさめられています。

クリックで大

 内容は 「髪は藁で束ねよ、雨具は蓑笠を用いよ 天明8年(1788)のお触れ」に書きました。

クリックで大

天保13年(1842)10月13日、「百姓風俗之義御触」『里正日誌』6p56
 
全文はゆっくりお読みいただくことにして、要旨をまとめます。
 
「百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で束ねるのが
古来からのしきたりであるにもかかわらず
身分不相応な品を着て、髪も油を使って結い
流行の風俗を追って
雨具も蓑笠の代わりに傘、合羽を使ったり
万端に無益の消費をして
先祖より引き継いできた田畑を人手に渡し
嘆かわしい
・・・
百姓はもっぱら耕作に力を用いるべき身分で
余業に移り、町人の商売をはじめることは
決してあいならぬ
 
近年奉公人が少なく、自然高給になっている
ことに、機織り下女は過分に給金を取り、余業に走り
本末を失っている
百姓は町人とは違い農業に一途に精を出し
それぞれが持ち伝えられた田畑から離れぬように
専一に心がけよ
・・・」
 
おおむね、このような内容の通知です。
天保13年(1842)は、7月に異国船打払令をあらため
薪水(しんすい)給与令が布告され
川越、忍の両藩に相模、房総沿岸の警備が命ぜられたときです。
これらの動向について、江川太郎左衛門がかかわっていたことも推察できます。
にもかかわらず、このような通知をすることは江川代官自身
耐えがたかったかも知れません。
 
一方で、農間稼ぎで日常的に江戸市中との交流を持つ村人達は
素早く諸外国や幕府の動きに接していたはずで
次の新しい時代の空気を嗅ぎ分けていたと思われます。
 
この通達を村人達がどのように受け取ったのか知りたいところですが
残念ですが、それらの記録は残されていません。
 
(2023.10.12.文責・安島喜一)