蔵敷庚申塚の石造物
1湯殿山大権現祈願塔 天明2年(1782)
天明2年(1782年)9月、蔵敷村の行者、玉泉坊が『天下泰平 国土安全』を祈って造立。
石碑の正面上部に、胎蔵界大日の種子
表面に『奉造建湯殿山大権現敬白』
湯殿山は、出羽三山の中の一山で、蔵敷にはこの祈願塔の他に太子堂前に、『月山・羽黒山・湯殿山供養塔』(年号不詳の文字塔)が一基あります。東大和市内で、出羽三山に関する遺物が現存するのは、この二基で蔵敷地区だけです。蔵敷地域の特徴とも思えます。出羽三山は山伏の錬行の場として知られています。造立者の玉泉坊は、湯殿山で修行をした行者だったのでしょうか?
2馬頭観音 文政8年(1825)
三段の台石の上に立つ方柱石塔の馬頭観世音です。塔身は、高さ94センチ。
正面中央に馬頭観音の種字(カン)、下に楷書で「馬頭観世音」と陰刻されています。
左側面に「文政八年乙酉春二月吉日」
右側面に「蔵敷村講中」
と彫られています。
東大和市内では馬頭観音は江戸時代中頃から盛んに造立され、幕末が最盛期で、以後昭和まで続きます。
全部で23基が残されています。享保2(1717)年のものが最古です。江戸時代18基、明治時代2基、大正時代1基、昭和時代2基となっています。ほとんどが造立の場から移動している中で、蔵敷庚申塚の馬頭様は塚にまつられている唯一の貴重な存在です。
文政8年(1825)造立で、農業の間に江戸へ薪や炭などを運んで、駄賃稼ぎをした最盛期に当たります。往復の安全、苦労をかけた馬の供養にとまつった村人達の気持ちが偲ばれます。
3庚申供養塔 六臂青面金剛像 明和元年(1764)
人の体内には、三尸(さんし)の虫がいて、60日目ごとにまわってくる庚申の夜に、天にのぼって、その人の罪過を天帝に告げる。罪過によっては、その人の生命がちぢめられる。と云う教えから、庚申の夜は眠らないで、言行をつつしみ、健康や長寿、豊かさを祈念したと伝えられます。
東大和市内に12基の庚申塔が残されています。その状況から、村境や村はずれに、村内に邪気が入りこまないよう魔除けとして造立され、道標としての機能も果たしたようです。最古は村山貯水池に沈んだ石川地域にあった、六臂青面金剛像 延宝8年(1680)のものです。
蓋付き方柱で、塔身の大きさは高さ79センチです。
塔身の正面には中央に大きく六臂青面金剛像を彫出し
上方には金剛夜叉明王や愛染明王の種字である(ウーン)
その左右に瑞雲にのる日・月
下方に二鶏を表します。
青面金剛像の足下に、中央は前向き、左右は互いに中央に向かい合う横向きの三猿が彫り出されています。
左側面に「武州多摩郡蔵敷村」、右側面に「明和元甲申十一月吉日 惣村中」とあります。
この像が建立された明和元年(1764)は、江戸時代の大きな百姓一揆、伝馬騒動が起こった年でした。
4板東・西国・秩父 百観音巡拝供養塔 明治28年(1895)
西国三十三番、坂東三十三所、秩父三十四所の観音札所の百ケ所の札所を巡拝した供養塔です。
東大和市内では18世紀中頃より、各地の霊場を巡拝し、祈願成就を記念し、無事息災を願って供養塔を造立することが行われました。
蔵敷村 内野杢左右衛門
小島佐吉郎
正面に西国 坂東 秩父 百観音巡礼供養塔
明治二十八年 春彼岸日
と刻まれています。東大和市域内には百番札所供養塔は7基あり、雲性寺にある正徳五年(1715)が最古です。
5道しるべ(年代、建立者など不明)
塚の入り口左側に貴重な道しるべがあります。
建立年月、建立者などが不明ですが、江戸や府中、砂川や八王子への道筋を案内します。
別に記します。
◎東大和市指定文化財市史跡・蔵敷庚申塚については別に記します。
(2016.12.14.記 文責・安島喜一)