住吉神社と御嶽神社(東大和市芋窪)
住吉神社と御嶽神社(東大和市芋窪)
都市計画道路・東大和武蔵村山線ができる前、四ッ街道の路地の奥に住吉神社と御嶽神社がまつられていました。大正年間、石川の里から村山貯水池の建設により村人と共に芋窪四丁目に移転して来ました。
それが、さらに、新しい都市計画道路建設のため移転することになり、現在は一時的に別のところにまつられています。新しい地にまつられるまで、旧地の様子を紹介します。
住吉神社
かって、境内には、二つの社がまつられていました。右側が住吉神社で、左側は御嶽神社です。
住吉神社は地元の人々に、住吉様、天王様と親しまれ、御嶽神社は『東大和のよもやまばなし』「藤兵衛さんと狼」の話で親しまれました。
住吉神社の創建については不明です。祭神について『狭山之栞』は
「住吉神社は当地の鎭守也。祭神底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命、表筒男命、素盞鳴尊(すさのうのみこと)等也。」と住吉三神と素盞鳴尊を記しています。地元では水を清める神としてまつったのでしょうか。
石川の里に生まれ、住吉神社の氏子でもあった乙幡六太郎氏は
「字・石川・第二千二百三十二番地の丘上にあり、左は土ヶ窪、右は南ヶ谷を見おろす」と記しています。松林がある小高い峰の見晴らしの良い場所であったことが伝えられます。土ヶ窪には「槌頭」(つちんど)伝承が伝えられます。
『東大和市史資料編』では住吉神社の祭りについて次のように記します。
石川の谷ッでは「とうろうまつり」といって子どもの祭りであった。四角なアンドンを作って絵を貼り、手ランプをつけて参道に立てた。ローソクもあったが余裕がなくて安い石油を使ったという。
芋窪に移転後は天王様の祭りといっている。六月三十日が大祭であったが、今は七月の第一日曜日に行っている。
昔からの灯籠を二十個ばかり参道に飾しめなわっていたが、今は四ッ街道まで〆縄を張って立てている。地口絵は砂川の人に書いてもらっているが、なかなか洒落た文句が多くなった。
宵宮には神主(石井宮司)が来て祝詞を上げ、氏子代表が出て神事を行う。今も宵宮の晩に集会所でお日待をやる。氏子も始めは四十名位だったが、原の方の自治会に入ってない人の参加も多くなり年々増えて大変賑わう。昔は皆が集まるころには神主は帰ってしまったが、今は皆に会えるからと待っていて、挨拶をした上で帰られるという。
この日の寄附金が一年間の財源になり、祭りや、修復の費用などを賄なっている。(『東大和市史資料編』9p109)
御嶽神社
二つの社のうち、左側の祠が御嶽神社です。次のような経過があります。
腕のよい木こりの親方藤兵衛さんは、「日かげ」に住んでいました。毎朝、笠松坂を通って仕事場に行きます。
ある朝、大きな口をあいて苦しげに、首を何度も振っている狼に出会います。喉に骨が刺さっています。藤兵衛さんはこわごはそれを取り除いてやりました。
それから、狼が朝晩送り迎えをしてくれました。藤兵衛さんは、「もう良いよ」と言い聞かせると、それから狼は姿を見せなくなりました。
藤兵衛さんは、狼が御嶽神社のお使いで、大口真神(おおぐちまがみ)といわれていることを思い、小さなお宮を造り、家の常口(じょうぐち)へおまつりしました。
そのお宮が、貯水池の建設と伴に、この場に移転してきたのです。「藤兵衛さんと狼」の話は別に書きます。
境内の碑
住吉神社境内に三つの石碑がまつられていました。
いずれも石川の里から移されてきた碑です。
左から弁財天 雷明神 神明社です。
それぞれに、湖底に沈んだ石川の里の暮らしを語ります。雷明神には「いかづち様」の伝承があります。別に書きます。
(2019.08.11.記 文責・安島)
豊鹿島神社1(参道から石段) 豊鹿島神社2(前庭・境内社・奥宮・要石)