住吉神社境内の碑(東大和市)
住吉神社境内の碑(東大和市)
かっての住吉神社境内に三つの碑がまつられていました。
左から弁財天 雷大明神 神明社です。いずれも、村山貯水池建設に伴い、大正年代に石川の里から移転してきました。
弁財天
高 68・0㌢
幅 39・0㌢×34・0㌢
正面 弁財天
(右側面)
武州多摩郡芋窪邑石川 セリヨ
同州同郡小川邑 ハタケ
同州入間郡落合邑 メリ□
(左側面)
文化十四年丑三月吉日
十九人講中
この碑は、文化14年(1817)3月に石川の講中でまつられています。『生活文化財調査概要報告書』は次のように説明します。
「故老の談によれば、石川の小流の側に慶性院に移した弁才天尊の石碑があり、その近くの湧水池の側に、この『辮財天』の石碑があったと伝えている。弁才天が水の恵みを与える神として、土地の農民に信仰されていたことは、その『辮財天』の石碑の左側面に刻まれた文字によって、およそ判断される。」(『生活文化財調査概要報告書』p85)
石川の里に裏人達が「講」をつくり、音楽や智恵の神様、水の神様としてまつたことが偲ばれます。
雷大明神(いかづちだいみょうじん)
正面
高約66㌢
幅21.0㌢×13.0㌢
正面 現在では読み取れませんが『生活文化財調査概要報告書』(p16)に
人王百四代後土御門御宇
雷大明神社 祭主 若満
願主 石川麿呂
文正元天戌十月三日
右側面
欠 歳二月 日
欠 州多摩郡 尾又七郎左衛門
芋久保村 石井武左衛門
高杉糸兵衛
栗原七左衛門
欠 兵衛
左側面
願 主 石井甚ヱ門
進藤善衛門
氏子中 須嘉沼平衛門
清野半左衛門
と彫られていたことが記されています。
右側面
この画像でも拡大すると
多摩郡
石井 高杉 栗原の文字が読み取れます。
地元の方によると、まつられていたところは住吉神社の西側にあった「いかづち山」の山頂とされます。『東大和のよもやまばなし』に「いかづちさま」として、夜泣きが止まる御利益が伝えられます。
この碑の造立は文正元年(1466)とします。この年は豊鹿島神社本殿が創建された年です。そして、祭主・若満、願主・石川麿呂はいずれも豊鹿島神社に関わっています。また、碑の左右に彫られた人名は、豊鹿島神社境内にまつられている滝沢明神社、白山大権現の碑に同名が刻まれています。いずれも、文化4年(1807年)2月に造立されています。
残念なことに雷明神社の造立年は「欠 歳二月 日」となっていますが、以上のことから、ほぼ、同年の文化4年(1807年)2月と推定できます。
滝沢の地名は豊鹿島神社から石川の里に至る地域、下堰堤付近にあり、碑はそこにまつられていました。白山大権現の旧地が不明ですが、文化4年(1807年)2月、石川の里では、丘陵南麓の豊鹿島神社と共通した神祭りの行事が行われたことが推定できます。
神明社
正面
高66.0㌢
幅26.5㌢×19.5㌢
上部左右に日・月
銘
(正面)
明和丙戌年 祭主
奉致造替神明社 吉輝
四月吉日
右側面
(右側面)
天下泰平五穀成就
武州芋窪村
(左側面)
時 天保六未年三月 日
祭主
市之進
石川の里から移されましたが、旧地は不明です。
碑文から、明和4年(1767)に造り替えたものを、さらに天保6年(1835)にまつったことがわかります。明和4年は前年の不作から、村人が飢え、幕府に救済を求めた年でした。その時に何らかの碑をたて、さらに、天保の大飢饉を辛い思いをしてどうにか切り抜け、天保6年(1835)天下泰平と五穀が実ることを祈願したことが伝わります。
いずれも、地味な碑ですが、再建されることを祈ります。
(2019.08.12.記 文責・安島)
豊鹿島神社1(参道から石段) 豊鹿島神社2(前庭・境内社・奥宮・要石)
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豊鹿島神社の境内社(2日吉神社)
豊鹿島神社の境内社(3愛宕神社 白山神社 滝沢明神社)
豊鹿島神社の境内社(4稲荷社 産泰社 御嶽神社)
豊鹿島神社の境内社(5紅葉稲荷社)
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