ネット・まちなか博物館への思い

ネット・まちなか博物館への思い

 昭和19年(1944)、小学校5年生の時です。
 東京がアメリカ軍の空襲で、焼夷弾に焼かれて逃げ回る中、八丁堀(東京都中央区)から大和村狭山に疎開してきました。

 こちらでも、空襲警報は鳴り「学校へは、山道を行け」とのことで、現在の第一小学校まで狭山丘陵の林の小径を通学しました。

今では松の木はなくなり、雑木が生長して、遊歩道が整備されています。
クリックで大

 ガキ大将を先頭に戦争ごっこをしながら行きます。軍服を着た若い兵隊さんが指揮をして、手ぬぐいで鉢巻きをしているおじさん達が声を掛け合っています。
 「ナニやってんだろう」と見ると、松の根を掘っていて、そばに、土で焼かれた破片や人形のような頭がバラバラにありました。

「コレ何?  」
 と聞きました。
「・・・」「・・・」「・・・」
 おじさんたちは、言葉を仕舞い込んで、困ったようでした。

 気になって、翌日、仲間より早く出かけました。
 やっぱり、かけらがありました。
 軍服を着た若い兵隊さんがこっちを見ています。

「これナニ? 教えて」
「・・・」
 目を見ていると、やがて、兵隊さんが
「今にわかるよ。大事にしとけよ。黙ってんだぞ!」
 と、言葉は怖かったけれど、優しい目つきで、一かけらを渡してくれました。
 大事に防空頭巾の中にしまい込んで、授業はそっちのけで、触っていました。

 神武以来の天皇の名前を暗記して、天橋立(あまのはしだて)からの国つくりの歴史を習っていました。
 昭和20年(1945)、終戦の夏、その大好きな教科書を一行、一行、墨で消しました。
 泣きたいようでした。

 そして、中学校で教わったのが「縄文土器」でした。なんと、あの兵隊さんがくれた模様がついています。
「これだ!」
 と納得、それから、ふるさとの歴史にはまりました。
 以後、あれは何? これは何? と疑問だらけ。
 86才になって、子供に返えって、さらにこの病は進みます。
 あの時の松の根っこは軍用機を飛ばすための「松根油」(しょうこんゆ)をとるためとも知りました。
 縄文土器と人面は歴史の先生にさしあげました。

 しきりに、思います。
 スマホでもパソコンでも、例えば、「縄目のついたかけら」「奈良橋の庚申様」「はだか参り」「・・・」と知りたいことを
 「?」に話しかければ
 ささーっと、画像と説明が出てくる。
 そんな、「ネット・まちなか博物館」が実現しないか!!
 せめて、ここで、その資料作りをして置こうと夢を膨らませます。

  (2019.10.25.記 安島喜一)

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