石橋供養塔 清水本村橋
 (東京都東大和市 指定文化財 郷土資料)

 清水観音堂の境内に入ると、堂の正面右側に立派な文字で彫られた石橋供養塔があります。
 地元の方々からは「本村橋の供養塔」と呼ばれます。

清水本村橋の石橋供養塔 クリックで大

所在 東大和市清水一丁目
指定 東大和市指定文化財 郷土資料
指定年月 昭和55年(1980)4月1日
指定理由
 この供養塔は方柱形石碑で、天保四年(一八三三年)前川に石橋をかけた際、建立されたものである。
 建立以来、永く清水本村橋の南のたもとにあったが、平成十六年一月、人道橋の設置工事にともない隣接の現在地に移設された。
 供養塔は、橋の構築と長期の保存を願い、さらには、迷いの世界から悟りの世界へ人々を「渡す」という仏の教えにちなんで建てられたものである。
当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。
平成十六年二月
    東大和市教育委員会

 教育委員会の説明のように平成16年(2004)までは橋の脇に歩道がなく、橋のたもとに供養塔が建てられていました。

かっての本村橋と供養塔 2000年10月1日撮影
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 平成16年(2004)、ここに歩道をつけることになりました。
 建立時のままの姿で伝えられた供養塔は動かすことになり、近くの観音堂の境内に移動しました。

現在の本村橋と歩道橋(人道橋)

供養塔の旧位置と現位置 クリックで大

観音堂へは入り口の門扉を開けて入れます。供養塔は正面に位置します。

本村橋石橋供養塔の碑面

 正面は先に挙げた画像の通り

 石橋供養塔

と彫られています。左右側面は次の通りです。

左側 残念ですが読み取れません。  右側 天保四癸已年(1833)八月吉日
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 右側は天保四癸已年(1833)八月吉日
 左側面は現在、画像のとおりでほとんど読めません。
 幸いな事に『生活文化財概要調査報告書』が次のように記録しています。
 「・・・、左側面には『武州多摩郡上宅部村・・・』と彫りつけてあるが前述の通り基部が土中に埋没している故、日付や願主が誰であるのか判らない。」(p117)

 武州多摩郡上宅部村の人々が、石橋供養塔を天保4年(1833)8月吉日に建立したことがわかります。上宅部村とは?

上宅部の位置と石橋供養塔 クリックで大

  狭山丘陵の麓に形成された旧村を本村(ほんそん・ほんむら)、南に広がる地域を前野、砂、街道南・・・と呼びました。
 その本村(清水)地域から、丘陵の峰を越して村山貯水池に沈んだ旧村・上宅部(かみやけべ)地域への主要な交通路がありました。
 途中、前川を渡ります。そこに架けられた橋が本村橋です。
 木や土の橋が多い中で、石の橋が作られました。そのときの供養塔です。

上宅部村って?

 供養塔の建立された前川、本村橋は清水村にあります。上宅部村は村山貯水池に沈んだ地域にありました。それがどうして本村橋の建立供養をしたのでしょうか?
 「上宅部村」(かみやけべむら)は行政上は江戸時代に入ってから消えて、清水村になっています。しかし、
・芋窪・豊鹿島神社裏山の御嶽山蔵王大権現碑(元治2年(1865)に造立)
・清水・三角神社祠内左側庚申塔(造立年代不詳)
 に上宅部村の名が刻まれ、
・郷土の史誌『狭山之栞』では「清水村之内上宅部」と分けて記述をしています。
 これらから、

・江戸時代を通じ明治時代に入っても、
・清水村の内としながら、
・上宅部村を名乗り、かっての村意識を持続する地域であったことがわかります。


石橋供養塔から上宅部への道筋 クリックで大

 石橋供養塔のある本村橋を通る道は、清水村から上宅部への主要な道路でした。上宅部地域には氷川神社、三光院などがあり、南麓地域の人々も共にまつり、お参りしていました。また、狭山三十三観音第十五番札所清水観音堂から第十六番札所三光院観音堂への巡礼路でもありました。
 両地域は密接な関係を持ちつつ、前川に架かる石橋の建設にあたり、上宅部の人々が石橋供養塔を建立したことが偲ばれます。

石橋は100年もつ?

 前川に本村橋が架けられる前に、すでに石橋が架けられていたようです。
 清水観音堂の境内に六十六部供養塔(大乘妙典六十六部日本廻国供養塔)があります。
 その裏面に興味深い彫りがあります。

正面


大乘妙典六十六部日本回国供養塔
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右・左則面

左則面 武州多摩郡清水村      右則面 享保十一丙午(ひのえうま 1726)年二月吉日
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 右則面には享保十一丙午(ひのえうま 1726)年二月吉日
 左則面には武州多摩郡清水村とあります。

 武州多摩郡清水村の人々が享保11年(1726)にこの塔を建てた事が刻まれます。問題は裏側面です。

裏側面

ブロック塀いっぱいで全面は撮影できません。クリックで大

 どうにか、「石橋・・・」と彫られていることが読み取れます。
 この箇所も、『生活文化財概要調査報告書』が読み取っていました。

「・・・今回の調査の際して観音堂裏の草むらの中から発見した享保11年(1726)2月に、清水村に造立された
 ・『奉納大乗妙典六十六部日本回国供養塔』の裏面に
 ・『石橋建立 願主円海 敬白、村々男女助願衆中』
 と彫った塔がある・・・」とします。(p117)

 「村々男女・・・」とありますので、清水村の村人達とも読めます。
 複数の村とすれば、清水と上宅部の人々が建設し、塔を建立したとも考えられます。いずれにしても、
・今回紹介した石橋が天保4年(1833)に架け替えられ
・六十六歩供養塔の橋が本村橋とすれば
◎石橋は100年以上活躍したことが推定できます。
 この謎解き、しっかり解きたいものです。

六十六部供養塔と石橋供養塔の位置

 六十六部供養塔は道路に面し、石橋供養塔は観音堂の奥にあります。門扉を開けると正面です。

 (2020.06.01.記 文責・安島)

 砂の橋の石橋供養塔

 市指定文化財

 上宅部の里