名号塔婆(東大和市指定文化財 郷土資料)
名号塔婆(東大和市指定文化財 郷土資料)
三光院の南側墓地に重厚な碑があります。
表面は風化して文字等はほとんど見分けられませんが、ズッシリと立つ姿に引き寄せられます。
東大和市指定文化財 郷土資料の「名号塔婆」(みょうごうとうば)です。
所在地 東大和市清水六丁目1140番地(三光院墓地内 新青梅海道南)
東大和市郷土資料
指定 昭和49年(1974)9月20日
指定理由 名号塔婆に刻まれた清水村周辺の村の名は、江戸時代中期の仏教信仰と当時の村の結束の様子を知るうえで重要である。
所在地について
三光院の門を前にして新青梅街道の南側、五十嵐墓地の一画に二つの碑があります。左側の碑が名号塔婆です。
大正初年、村山貯水池の建設にともない、下の図のように移転して現在に至ります。
碑面
現在は表面からはほとんど刻まれた文字等が読み取れません。かっては下図のように読み取れました。
正面
施主 千日惣廻向
南無阿弥陀仏
元禄三年午(うま)二月十日
□与願心
清水村 宅部村 杉本村 林村 日向村 境村 廻田村 荒幡村 野口村 菩提木村
江戸時代初期、狭山丘陵の村々に広まっていた阿弥陀信仰を象徴する碑と云えます。
長きにわたる念仏供養の満願成就を迎えて清水村周辺の村人達が念願の碑を建立したことがわかります。
碑文には
・元禄三年(1690)
・阿弥陀如来の功徳をたたえ、死者の冥福を祈り、自らの極楽往生を願って
・千日間の念仏供養を行った
・その満願成就の日を迎えたので
・記念して10か村の村人達が
この碑を建立した。
と刻んであります。その下には大きな蓮華が浮き彫りになっています。
10か村の名が刻まれています。現在の市では、次のようになります。
清水村 宅部村 杉本村 林村 東大和市
日向村 境村 廻田村 野口村 東村山市
荒幡村 菩提木村 所沢市
中世から明治にわたる阿弥陀信仰
碑に刻まれた村々は狭山丘陵の東部の峰々を通じて存在し、講が形成されていたことが考えられます。
村山貯水池が建設される以前は名号塔婆の元所在地の近くに三光院がありました。『新編武蔵風土記稿』はその本堂の前に応安2年(1369)正月、「南無阿弥陀仏」と刻んだ板碑があったことを記しています。現在も三光院の境内に保存されています。
東大和市内で最後の名号塔婆は高木鈴木家墓地にまつられる碑です。
明治20年(1887)の年号が刻まれています。
この他にも、各地域の墓地に「南無阿弥陀仏」が彫られた墓石があります。これらから、狭山丘陵周辺では中世から明治にわたり阿弥陀信仰が盛んであったことがわかります。
元禄三年(1690年)という年
徳川幕府が開かれて80余年、江戸の経済、政治の基盤が安定して、文芸や学問が身近となり「元禄時代」と云われます。
それが、東大和地域ではまさに新田開発の時代でした。
・承応3年(1654)玉川上水、翌、承応4年(1655)野火止用水が完成すると、
・村人達は目の前に広がる武蔵野の原野の開墾に着手します。
・赤土の上にわずかに黒土が乗る痩せた野原を畑にする作業です。
・困難を極めました。
・それから30年余、名号塔婆が建立された元禄3年には、新田名に「中原、堀端・・・」などの名が出てきます。
・ついに野火止用水際まで開墾が進んだことを示します。
この開墾は、飢えに苦しみ、幼くして子供達を失い、赤っ風の吹く中の厳しい作業でした。しかし、未来の食料、村の安定の元になる仕事でした。千日供養は、一面では、この実りのための祈りであり、供養であったとも思われます。
(2020.05.29.記 文責・安島)