蔵敷調練場跡(東大和市旧跡)

蔵敷調練場跡(市旧跡)

蔵敷2丁目、三本杉・山王様の北側 鳥居の前に「蔵敷調練場」の説明板がある
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指定の概容

所在地 蔵敷2丁目535番地付近
指 定 昭和55年4月1日
管理者 熊野神社
説 明 江戸末期に治安の維持や百姓一揆を鎮圧するため農兵を養成した場所で、貴重な旧跡である。

山王様前の説明板

蔵敷調練場跡説明板
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 江戸時代末期は日本全体が混乱し、治安が乱れている。このため、文久3(1863)年、この付近を治めていた韮山代官江川太郎左衛門は、治安維持のため、また頻繁に起こる百姓一揆鎮圧のため、村役人級の農民を農兵に編成し、小銃を貸し付け、農業の合間に軍事訓練を行った。農兵に軍事訓練を行なった場所を調練場といい、この付近一帯がその場所であった。 東大和市教育委員会

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ひがしやまと文化財ガイド

 幕末、農民の一揆を鎮圧するため、各地で豪農の子息が「農兵」として組織されました。そして蔵敷村を中心とするこの地域の農兵の訓練をしたのがこのあたり(芝中団地周辺)だといわれています。市旧跡に指定されています。

 訓練の総指揮は韮山代官の江川太郎左衛門(英敏 ひでとし)、責任者は蔵敷村の名主内野杢左衛門でした。内野家には当時の銃や陣笠、作戦会議用の「駒」などが残されています。

 調練場跡の文化財の看板が立ててあるところは、日枝神社(ひえじんじゃ)です。フェンスに囲まれた三角地の中の小さなお社で、地域の人々からは山王様(さんのうさま)と呼ばれています。(平成11年(1999)3月1日 編集・発行 東大和市教育委員会 社会教育部 東大和市立郷土博物館)

農兵って?

・農民が鉄砲を持って、いろいろ訓練をして
・国防と地域の治安維持に役立つ
・調練場はその訓練をするところ
 とされます。

 わかったようで、わかりにくいですが、
・農民が武装することを禁じられていた時代に
・異国船が来て、開港、貿易を迫り
・物価が上がり、飢饉になり、無頼の徒が往来し
・対外緊張と地域不安が重なりました。
・この対応のため、特別に武装を許された集団でした。
・平成25(2013)年7月20日~9月30日、東大和市立郷土博物館が開いた「東大和の歴史展~激動の幕末・明治期をさぐる」で、農兵に関し、下図のような展示がありました。
 実際に使われた制服や銃が展示され、当時の様子が偲ばれます。

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 平成25(2013)年7月20日~9月30日、東大和市立郷土博物館が開いた「東大和の歴史展~激動の幕末・明治期をさぐる」展(9月29日撮影、掲載の許可)

調練場の位置

説明板に「所在地 蔵敷2丁目535番地付近」と記されているように、位置を特定することはできないようです。やむを得ず、当時の様子を伝える『里正日誌』を調べると、次の図面が付されています。

蔵敷調練場麁絵図(略図)『里正日誌』9p177
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 『里正日誌』では慶応元年(1865)7月2日に江川代官所に届け出ています。この場所はそれ以後に調練場として使われたことがわかります。上記図を現在の地図に位置づけると、調練場は概ね芝中団地内にあったことがわかります。

東大和市案内図 蔵敷・奈良橋の一部 旧道が団地内に取り込まれている。
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三本杉・天王様の南側からの蔵敷調練場の現状
芝中団地建設前には調練場の先から旧道が二股に分かれていて、その間に調練場が築かれた。
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どのようにしてこの調練場はできたのか

 この蔵敷調練場が生まれるまでの長い歴史があります。
 長くなるのでページを改めます。

 (2022.02.24.記 文責・安島喜一)

 東大和市指定文化財

 農兵調練場1-1
 農兵調練場2 江川農兵の成立