学童疎開1
学童疎開1
小学校5年生が親元を離れて
昭和19年(1944)の事です。太平洋戦争も本土決戦が叫ばれるようになってきました。
学童疎開が行われました。戦火を避けるため、東京の小学校の児童が親元を離れて集団で安全な場所に移って生活する仕組みです。
実際には、「大都市における児童を安全な場所に保護しながらも皇国民錬成の基礎教育をするため」(『東村山市史』2p447)とされます。
この時代特有の出来事です。
大和村は、東京都内、赤坂国民学校の児童を受け入れることになりました。
・8月22日、
・東村山町(東村山市)・大和村(東大和市)・村山村(武蔵村山市)にある
・6箇所の寺へ、総計261名が集団で疎開してきました。
・大和村では蓮華寺に
・5年生の女子が27名、
・中山貞次訓導 引率保姆2名、作業員1名、
・合計31名が来て
◎村の助役・名誉職・婦人会の会員多数と大和国民学校5年女子が出迎えました。
受け入れの準備はさぞ大変であったろうと推測します。東村山町では、
「東京都の払い下げの机や椅子を化成校の児童達が六~七㌔もある国分寺まで徒歩で引き取りに行っています」(学童疎開 影山葉子 『多摩のあゆみ』35p66)
としています。大和村ではどうだったのでしょうか?
毎日の生活の様子
児童達の毎日の生活です。基本が「東京都国民学校戦時疎開学校園設置要項」で決められていました。
①行学一体、師弟同行ノ練成ヲナシ特ニ生活訓練ヲ重視スルコト。
②勤労生産ヲ重視シ、農耕畜産水産其他環境二即スル作業ヲ課スコト。
…略…
勉強ばかりでなく、生活訓練、農耕や畜産など環境に合わせた作業をすることになっています。
蓮華寺での実際の生活は次のようでした。
・五・三〇 起床 宿舎清掃・洗面
・六・○〇 朝礼 国旗掲揚・宮城遥拝・朝の誓
・六・二〇 朝食
・七・○○ 登校 大和国民学校 八・○○~一・四〇
・二・三〇 帰寮
・三・○〇 学習・作業・運動
・四・○〇 清掃・自由時間(入浴・散歩・其ノ他)
・五・三〇 夕食
・六・○〇 団欒(だんらん)
・八・○○ 就寝
起床、朝食後です。
27名の5年生は、芋窪の蓮華寺から奈良橋の大和国民学校(現在の第一小学校)に通いました。
学校から帰ってからが大変でした。
放課後には、裁縫・音楽・薙刀(なぎなた・武道)の時間が設けられています。大和村の村人が先生となりました。(『東大和市史』p325)
(2021.10.08.記 文責・安島)