学童疎開2
学童疎開2
親元を離れての小学校5年生の女子生徒です。生活は厳しい一面があったようです。お隣の村山村の例です。
「宿舎であった寺の本堂は墓地に近く、夜間洗面所に行くのに恐怖を覚えた故もあるのか、寝小便の常習、熱を出す者、不衛生な環境が招いた出来物や蚤(のみ)・虱(しらみ)の発生、南瓜などへの食傷と食物の変化による下痢、そしてホームシックに襲われて線路沿いに帰ろうとする者まで出る始末であった。」(『武蔵村山市史』下p465)
その一面、楽しいこともありました。大和村での正月の様子です。
「昭和二十年一月 赤坂国民学校長宛「近況報告」村松 朗
・一同元気、戦争下らしからざる正月を迎えることかできた。
・父兄神保明世氏(日本画家)より氏の手による四畳半大のスゴロクの寄贈あり、一同大よろこびいたして居る。
・五日の晩新年会、お寺の皆様、大和の校長さん招待してのごちさうに子供達大よろこび、終へて演芸会楽しい一夜を送る。
・大和の校長先生から子供達にお年玉を、日立診療所長梶山盛夫氏よりお歳暮をいただく。」
(『東大和市史』p325)
一方で、小学生の実感と当時の指導者の差を率直に表す談話が収録されています。
「私は六月に東京へ帰ったのでスゴロクは知らなかった。
学校まで四十分毎日通った。薙刀の時間は裏の竹藪から竹を伐り出し竹槍の稽古、先生に日本が勝つと思う人手を挙げてと聞かれ、誰も手を挙げなかった。先生が烈火の如く怒ったが、竹槍では勝てないと思った。
蓮華寺の佐々木栄賢住職には、何かにつけて気をかけていただき、尾茂校長先生はすばらしい人で、学校の生徒たちにサツマイモ一こづつ持参させて寮にくださった。村の人たちもとても親切で、ここの疎開児童は幸せだった。」
(日本画家 神保明世の娘松本礼子談 『東大和市史』p326)
食べものは?
戦時中の食糧難、酷(ひど)かったです。これを書いている私も昭和19年、小学5年生で大和村に自主疎開してきました。「防空頭巾の疎開っ子」と呼ばれ、細かく刻んだ大根が半分以上で、ほとんどが麦の「大根飯」でした。しょっちゅう腹をすかせていました。
蓮華寺の方ではどうだったでしょうか?具体的な資料が残されていませんが、東村山町の例です。
「疎開児童の献立は馬鈴薯やかぼちゃの煮付け、ぎゅうり、茄子の粕漬けなどの副食に、米やかぼちゃを主食とし、それにかぼちゃや茄子を具にしたみそ汁という一汁一菜の質素なものであった・・・。(『東村山市史』下p448)
大和村では、児童が野菜の栽培をして不足を補いました。また、村人の寄付がありました。
・9月1日 ジャガイモ 1俵 見積価格11円 芋窪南組
・9月10日 ジャガイモ 1俵 同上 小嶋直一
・10月8日 寄付金 100円 高橋金次郎
これらの寄付は、何よりも子ども達を喜ばせたそうです。
戦争が終わって
昭和20年8月15日、酷(ひど)い戦争が終わりました。赤坂の子供達は一目散で家族の元に返りたかったはずです。ところが、そうは行きませんでした。東京都内の校舎、食料などの問題があり、蓮華寺に留まらなくてなりませんでした。
子供達と生活を共にしていた村松訓導が次のように記します。(『東大和市史』p327)
「昭和二十年八月十五日、終戦を迎えました。
しかし、集団疎開はそのままつづき、東京へ引きあげてきたのは三か月後の十一月でした。
この三か月の生活は、目的を失った空しい日々となりました。
ひたすら勝利を信じ、苦しさに耐えてきた張りつめた生活から、
ぷつんと糸の切れたような、意味のない集団生活となってしまいした。
六年女子三十名の中に「家恋し、親恋し」の気風が充満しました。
私は気分転換のため学芸会を計画しました。
お世話になった村の人たちに、お礼の意味の学芸会を見ていただこうというわけです。
この計画は大成功で子どもたちは毎日練習に熱中し、楽しみの少ない村の人たちも大喜びでした。」
◎終戦になるまでに、親元と疎開するため、集団疎開の児童数は減っています。
東京都の調べでは22名とされます。この手記では30名となっています。
戦災孤児
赤坂の子供達が帰宅した後、蓮華寺はさらに保護活動を続けます。
戦争で親や保護者を失った戦災孤児の保護です。
13名が入寮しました。
無事に米寿を迎えたか
ここに紹介した学童疎開の子供達は、今年、米寿(88歳)を迎えました。
皆さん健康でしょうか!?
第二次世界大戦の記憶が薄れる中での忘れられない出来事です。
(2021.10.08.記 文責・安島)