悪党は直ちに捕らえよ! 外出は控えよ!!  関東取締出役からの命令

悪党は直ちに捕らえよ! 外出は控えよ!!
 関東取締出役からの命令
 
嘉永7年(1854)1月18日、今度は関東取締出役から呼び出しです。
19日に、所澤村へ、各組合村の幹部は集まれ、との達し。
 
当時、狭山丘陵周辺の村々は、
・江川代官所(幕府)
・旗本・幕臣(領主)
・寺社
・尾張徳川家の鷹場
 による四重の支配・統制・干渉を受けていました。
これらの区分にとらわれずに、広域に悪徒の「取り締まり」をするのが関東取締出役でした。

江戸時代末、村の支配関係図
(クリックで大)

 関東取締出役は無宿、悪徒の取り締まりについて、図の「通常の支配関係」の枠を越えて活動した

 狭山丘陵周辺では、次のような区域(組合)に分かれて、その支配を受けました。
 東大和市域の村々は芋窪村を除き、所沢村組合に属しました。

組合村位置図(クリックで大)

 嘉永7年(1854)1月19日、48ヵ村を代表する者達は所沢村に集まりました。
 関東取締出役の山口顕之進、内村晋一郎、廣瀬鐘平がおもむろに伝えます。
 そこで渡されたのが次の文書です。

異国船渡来につき、関東取締出役からの御達

(クリックで大)

意訳します。
 
異国船渡来につき、御達
 
 このところ相摸国浦賀あたりに外国船が来ていることから
・いつも以上に在方の取締りをするよう勘定奉行より命令があった。
・組合村々はよく相談して取締りをせよ。
 
・もし疑しい者、あるいは長脇差を持った者をみかけたら直ちに捕えて
 もよりの関東取締出役の廻村先へ申し立てよ。
・社会の空気が不穏というすきに乗じて悪徒たちが村々にやってくる可能性がある
 
・村人たちは理由のない外出をせず、火の用心に心を配り、
 お互いによく相談して各村ごとに取締りをせよ。
・また大小惣代たちは組合中の村々を常に廻村して無頼のものたちがいたら召捕えよ。
・右の趣旨を村々の者たちへよく申し聞かせよ。
・この廻状は時刻を明記して順達し、最後の村より返却せよ。
                           以上
       寅(とら)正月十八日関東御取締出役
              中山誠一郎(以下略) 
  所澤村ほか四十七か村の役人中
                     (『里正日誌』7p23)
 
 なお、内野杢左衛門による次の付記が付けられています。
 
付記
 右は嘉永七年寅正月十九日に所澤村へ組合の大小惣代が呼び出
 されて、関東取締出役の山口顕之進様、内村晋一郎様、廣瀬鐘平様よ
 り組合村々に対し厳重取締方について命じられたものである。
 
 
村々の総代はどのように受け止めたか
 
 大事ですが、関東取締出役からの中身は
 これまでに伝えられていることとほとんど変わらず、
 当時の狭山丘陵周辺の村人達は江戸市中への
 農間稼ぎが許されていたことから、
 ・情報源は広く、国内の物価や品物の動き、一揆の動向から
 ・ロシア、イギリス、アメリカなど諸外国が取り巻く国際的な動きさえも
  早くから耳にしていました。
 ・また、蔵敷村の名主・内野杢左衛門は代官・江川氏と親しく
  外交や防備など幕府内の具体的な動きも耳に入っていたと伝えられます。
 
 そのような中でのこの通知内容、村惣代は「・・・」と顔を見合わせたと思われます。
 「もっと重要なことがあるはずなのに」と冷ややかであったかも知れません。
 
 さて、村人にはどのように伝え、村人はどのように判断したでしょうか?
 
 (2023.01.11.記 文責安島)