ペリー再来航、村は厳重に取り締まれ!  江川代官からの回状

 ペリー再来航、村は厳重に取り締まれ!
 江川代官からの回状
 
 嘉永7年(1854)1月9日です。
 ペリーが、旗艦を先頭に蒸気船(3)、帆船(4)の大陣容で浦賀沖に再来航しました。
 前年の6月3日、初来航、6月12日、親書の回答受取りのため明春に再来することを告げて、
大砲を発射しながら江戸湾を去って6か月後です。

嘉永7年(1854)江戸湾台場の状況 クリックで大

その間、台場を築くなど備えをしていましたが、まだ、半ばです。

浦賀船番所の当番は、さぞ、緊張して上司に報告したことでしょう。(クリックで大)

 当時、東大和周辺は江川英龍が代官として治めていました。
 伊豆・韮山で幕府からの命令を待っていた英龍は13日、江戸に到着しました。
 阿部正弘らに面会、善後策を協議しました。
 
 一方のペリーは、1月16日、江戸湾に進み、羽田沖まで乗り込んで来ました。
 そして、大統領フィルモアの国書に対する日本政府の回答(通商開港)を要求します。
 
 その時、東大和市域ではどのようなことが起こっていたのでしょうか。
 16日、幕府内で協議が続くうち、素早いもので、その日の内に、
 江川役所から東大和市周辺の村々に、「異国船の渡来につき取締方の義御廻状」として
 次のような命令が届きました。
 
 江川代官所からの異国船の渡来につき取締方についての廻状(意訳)
 
 近比(ちかごろ)異国船が度々(たびたび)渡来して来ることについては、
 かねてから大名領や旗本知行所へは(万一に備えて)人馬の用意を申し付けて置くこともあったが、
 今回の異国船渡来の様子では、身体壮健の男子は近々江戸表に出動することもあり得る。
 無宿者や悪党が乱暴を働き、江戸へやってくるかも知れないからだ。
 
 このことについては老中・阿部伊勢守正弘殿の指示もあり、また関東取締臨時出役にも命令があったが、
 ・関東は大変広いので
 ・悪党らが入れないように
 ・江戸の出口の四か宿(品川・千住・板橋・新宿)はもちろん
 ・代官領内の脇往還の入口にあたる村々は
 ・特に厳重に取締りにあたるように
  との命令が勘定奉行本多加賀守安英殿から代官へ下された。
 
 代官支配所内の脇往還の入口にある村はもちろん、その他の村々においても
 この趣意をよく心得て、取締りを厳重にするようにされたい。
 関東取締出役が派遣されることもあるが、各村の村役人たちはしっかり取締りを行われたい。
 この廻状の村名の下に名主は請印をして時刻を明記して順に送り、最後の村についたら返されたい。
                              以上。
  一月十六日
    江川太郎左衛門役所
 
 さて、村人達はどうしたでしょうか?
・前年、9月12日には、江戸湾への台場建設用に松材の切り出しをしている
・同10月に、代官江川英竜がロシアと交易をして、それらを背景に軍備を固めよとの提案をしている
 などを知っていることから、さて、との思いがあったと思いますが、次へ続けます
 
「参考」
 
 参考までに、東大和市内野家に伝わる『里正日誌』に、このときの通知の原文がありますので、引用します。
 
 異国船渡来につき取締方の義御廻状(『里正日誌』7p22)

クイックで大

 異国船渡来につき取締方の義御廻状
 
 近比(ちかごろ)異国船 度々(たびたび)渡来については、かねて領分知行(大名領、旗本知行所)へ人馬用
 意申付置候面々もこれあるやにつき、此度 異国船渡来の模様(もよう・様子)
 承り候わば、壮健の者共近々江戸表へ出、自然 無宿悪
 党の者立廻り及乱妨御府内へも立入べき哉(や)も計り難く、右に付
 ては阿(部)伊勢守殿御沙汰の次第もこれあり、臨時出役(関東取締臨時出役)に
 も仰付られ候えども関内場(かんないば 関東は)広の儀につき(広いので)、なお 悪党者入り込
 ざるように出口四か宿(品川・千住・板橋・新宿)は勿論、支配所内脇往還入口村々取締の義
 厳重申付べき旨、本多加賀守殿より御代官方へ御達これあり候
 処 其意をえ、支配所内脇往還入口村々は勿論、其余村々にお
 いても右の趣相心得、取締方厳重取計べく候、もっとも 関東取締出役のも
 のも差出(さしだす)義には候えども、村役人精々(せいぜい)取締致べく候、此廻状
 村名下へ名主請印せしめ、刻付(こくづけ)を以(もって)順達、留村(とどまりむら)より
 相返べく候、已上(いじょう)
 
   江川太郎左衛門
 
  寅正月(とらしょうがつ)十六日役所(参考『東大和市史資料編7』p19)
 
 
 (2023.01.09.文責・安島喜一)
 
 

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