竹槍を持って駆けつけます 嘉永7年(1854)正月 ペリー再来航
竹槍を持って駆けつけます
嘉永7年(1854)正月 ペリー再来航
嘉永7年(1854)1月9日、ペリーが再来航しました。
これに対応して
防衛、対外政策に脚光を浴びる江川代官と
泣く子も黙る関東取締出役から、それぞれに連絡が来ました。
その時の村人の対応です。
村の人々は、これまで、江戸湾の台場つくりに松材を伐りだし、
諸外国の圧力を肌に感じていました。
また、前年のロシア船の長崎来航、それに伴うイギリス、各国の対応、
八王子千人同心の北方警備のための蝦夷地移住(1800年と1852年)
わが江川代官の親露通商政策、農兵の設置策(1852年)
幕府内での開国論議、攘夷論
などを耳にしています。
さて、どうする。
村人は一層の緊張に包まれたと思います。
それがです、まあ、ご覧下さい。
東大和市に伝わる『里正日誌』にその時の文書が記録されています。
最初の部分が繰り返しになりますが、そのまま引用します。
先ず、関東取締出役からのお達しの部分です。
「嘉永7寅年正月廿三日
御取締向請印帳 蔵敷村」
関東取締出役より所沢寄場組合に届いた文書を村人に引用して、
村人が約束事を誓約した前文です。
この後に次に引用する心得之事が続きます。
異国船渡来につき、関東取締出役より御達
このところ相摸国浦賀あたりに異国船が来ていることから
・いつも以上に在方の取締りをするよう勘定奉行より命令があった。
・組合村々はよく相談して取締りをせよ。
・もし疑しい者、あるいは長脇差を持った者をみかけたら捕えて
もよりの関東取締出役の廻村先へ申し立てよ。
・社会の空気が不穏というすきに乗じて悪徒たちが村々にやってくることも考えられるので、
・村人たちは理由のない外出をせず、火の用心に心を配り、
・お互いによく相談して各村ごとに取締りをせよ。
・また大小惣代たちは組合中の村々を常に廻村して無頼のものたちがいたら召捕えよ。
・右の趣旨を組合村々の者たちへよく申し聞かせよ。
・この廻状は時刻を明記して順達し、最後の村より返却せよ。
以上
寅(とら)正月十八日関東御取締出役
中山誠一郎(以下略)
所澤村ほか四十七ヶ村組合の役人中
この書面に引き続いて、蔵敷村の名主・杢左衛門が次の付記をしています。
前書の通り回状をもって知らせがあり、なおまた
関東取締出役の山口顕之進、内村普一郎、広瀬鐘平様が来られて
伝えられたことを組合村の役員(小前)一同、細かく伺い承知した。
そこで、相互に申し合わせをした。
・村中の取り締まりをする
・無用な外出等はしない
・よんどころなく(やむを得ず)、定めたこと以外のことをした場合は
・用事の次第を村役人に届け出る
これによって、次の通り、一札(心得)を差し出した。
こうして「心得之事」が書き出されます。
心得の事
右の通り御取極(とりきまり)りされた上は、
・小前にても竹鎗・竹螺(たけぼら)等を用意して置き、
・役宅において盤木(ばんぎ)の音が聞こえたならば、
・右の鎗を用意し、早速、駈付(かけつけ)ます。
・もし、悪党共がどこからでも押し来れば、
・竹螺で知らせます。
・その節は一村の者共、兼(かねて)て用意の具を持参して駈け付けます。
今回の異国船渡来の件について、その筋(関東取締出役)より村中の取締りを
厳重にせよとのご通知はありがたいことです。よって
・我々はまず農業を怠らず真面目に励みます。
・法に触れるようなことや、
・人を寄せ集めるようなことは決して致しません。
・もし、心得違いのものがいたら
・その者の所属する五人組で相互に注意しあい、
・必らず取締りを行ないます。
・万一、背く者がいたら、五人組構成員すべて、いかようにも御取り計らい下さい。
・後日のため連印をもって差し出します。
連印、次の如し
嘉永七寅年正月廿三日
百姓
藤吉 印
源六郎 印
以下略
四十六人
名主杢左衛門殿
村役人中
村人が本当にしたかったことは?
拍子抜けした感じかも知れません。
しかし、当時としては、この心得は村人達の心中は別にして、
当たり前のことであったのでしょう。
ところが、村人達の耳には、中国の近況、島国の日本へ向かってくる
オランダ、フランス、イギリス、ロシア、アメリカなど諸外国の動き
今後の具体的な対応策・・・
などいろいろな情報や意見が入り交じっていたのではないでしょうか?
また、物価の高騰も指摘されます。
計り知れない危惧や不安、そして願望があったと思われます。
その上で、実際には何をすべきかを話し合っていたのではないでしょうか?
当時の資料を探していますが、行き当たりません。
どうか、お心当たりの方、ご教授をお願い致します。
堅苦しいページで申し訳ありません。
(2023.01.18.文責・安島喜一)