奈良橋村地頭・石川太郎右衛門拝領の朱印状(写)
奈良橋村地頭・石川太郎右衛門拝領の朱印状(写)
徳川家康が関東に移ると共に、直属の家臣達が狭山丘陵周辺に配属されてきました。
その一人が石川太郎右衛門で、奈良橋村を治めました。
その時拝領した御朱印状(命令書)がなかなか見つかりません。
幸いに、石川氏の支配地であった蔵敷村の名主=『里正日誌』の作成者・内野氏が
寛永二年(1625)九月二日発行の写しを記録されました。
(朱書と記された部分は、内野氏が石川氏の所有する御朱印を写したことの付記です)
しかし
武蔵国都筑郡(つづきぐん)
奈良橋之郷
三百三拾石
とあり、地元で一般的に云われる
武蔵国多摩郡
奈良橋村
三百三拾石
とは違います。
この謎解きに随分と時間を費やしてきましたが、なかなか思うようには行きません。
やむなく、『里正日誌』に記されたそのままを引用して
是非ご助言を頂きたくお願い致します。
参考までに
・「奈良橋郷」は芋窪の豊鹿島神社創建棟札 (文正元年・1466)に「上奈良橋郷」が使われています。
・但し、周辺地域の資料にもこの郷の使用例は少なく
・今回の朱印状の「奈良橋之郷」が多摩郡であれば、「奈良橋郷」を伝える貴重な資料です。
・都筑郡は現在の神奈川県の地域に入ります。
・石川氏の先祖は、家康の祖父松平清康に仕えて以来の徳川家譜代の家臣でした。
・東大和市に伝わる『狭山之栞』によれば、
・初代は関ヶ原の合戦で討ち死にし、
・その子孫に、相模国大隅郡の内、打間木村に200石加増された
とします。ここから、神奈川県との関わりがあったことは考えられます。
・石川氏歴代の墓碑が雲性寺にまつられています。
その前に手を合わせると「早くせい!」とせかされます。
(2023.01.21. 文責・安島)