東大和市は海の中にあった

海の中の説明 東大和市史、東大和市史資料編2 クリックで大

 こうお話しても、「へー・・・」と疑いの視線が帰ってきます。
 子供達はたいてい「ウソだ―」「証拠見せてよ」と迫ってきます。

 でも、東大和市の歴史に関する説明はそこから始まります。

 左は『東大和市史資料編2多摩湖の原風景』の扉です。村山貯水池建設の際に、現在の下の堰堤の中央辺りで発見されたカキです。

 右は『東大和市史』の23頁です。東大和市が渚の状況だったことを示します。目に見えないだけに、なかなか信じられません。

「狭山丘陵の成り立ち」の説明図展示 東大和市立郷土博物館2階
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 そこで、その証拠の手がかりを得るために、ご一緒に探しに行きましょう!!

 最初は「東大和市郷土博物館の二階」です。 入り口を入って正面すぐ右手に「狭山丘陵の成り立ち」という展示があります。

「狭山丘陵の成り立ち」の説明図  クリックで大

 左側に地層の説明があり、東大和市の地層が辿れます。
 芋窪礫層から現在の表土層までが階層になって説明されています。
 右上に6画に分けて、海から陸地になり、狭山丘陵ができた過程が図示されています。

 60万年前から現在までが手に取るようにわかります。そして
・今から50~60年前、東大和市の周辺は海の中でした。(図1)
・約10万年前、狭山丘陵は同時代に形成された丘陵と地続きでした。(図2)
・その後、青梅から放射状にのびるいくつもの川の流れによって切り離されました。(図3)
・その後、火山灰の堆積と川の浸食をくり返しながらかたちづくられた武蔵野台地のなかにとりのこされた島のようになっているのです。(図4~6)
のように説明されています。是非、実物をご覧下さい。

東京都が地盤沈下の状況を監視するための観測所

 もう一つが、第一中学校校舎北側にある「東大和地盤沈下観測所」(東京都の施設)です。

 青梅街道から第一中学校のプール北側の道を入って東に進みます。北側からの入り口を通り過ぎると下の画像の建物があります。

 入り口を入って正面、左側に案内板があります。

調査の内容の掲示 クリックで大

 

「東大和の地質と地盤沈下」の大見出しの通り、地下水と地盤沈下の状況を監視する施設です。

 その中に、「武蔵野台地の地形分類図」と地質柱状図が示されています。

 昭和52年(1977)、深さ700メートルにわたり地下の調査をしたときのデータです。

 深度62~66メートルからマガキ、深度221~226メートルからヒメアサリの化石が出土しました。
 それらを含めて、次のように説明がされています。長くなりますが、引用します。

武蔵野台地の地形図 狭山丘陵が多摩丘陵などと同じ地層であることがよくわかる クリックで大

 「東大和市の地形は、北部の丘陵地(狭山丘陵)と、南部の平坦な台地(武蔵野台地)とからできています。

 今から約200万年前から70万年前までは、この辺りは浅い海でした。そして、西に広がる関東山地から川によって運ばれだ砂やれきが海に堆積し、東大和市の土台となる上総層群がつくられました。

 その後、この辺りは氷河の発達による海面の低下により陸化し、扇状地ができました。この扇状地を流れるかっての多摩川は度々流路を変え、扇状地面を削りながら、段丘面をつくりました。現在の武蔵野台地を形づくる段丘面はこのときできたものです。また、今の狭山丘陵はそのときに削り残された古い扇状地面の名残りです。

 段丘面には、かって多摩川が流れていたときに運ばれてきたれき(段丘れき層)が堆積しています。そのれき層の上に富士山などからの火山灰(関東ローム)が厚く降り積もり、現在の地形・地質ができたのです。」

 全体的な状況が把握できる場所、二箇所を紹介しました。実際の地層は次の箇所で見ることができます。

多摩ローム層 芋窪・豊鹿島神社奥宮周辺=鹿島台

・芋窪歴層 蔵敷・熊野神社本殿裏

・芋窪礫層 村山貯水池内

(2017.07.10.記)

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