建武三年(1336)の鐘(豊鹿島神社)

 元弘3年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めで、近接する小手指、久米川、分倍と目の前で戦乱を目にした東大和の人々。鎌倉幕府が滅亡し、京都に戻った後醍醐天皇は、元号を建武と改めました。日本の時代が大きく動いた時でした。その時、東大和市域はどのような状況にあったのでしょうか。僅かな手がかりがあります。

 芋窪の豊鹿島神社に、建武3年(1336)銘の刻まれた鐘があったことが伝えられます。
豊鹿島神社は慶雲4 年(707)の創建伝承をもち、現在の本殿には文正元年(1466)創建棟札を保存します。参道に大きな欅の木があり、樹齢1000 年を超すと伝えられてきました。

 この古社に、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』、江戸時代末期に地元の杉本氏が著かれた『狭山之栞』に建武3 年(1336)の鐘があったことが記載されています。各記事ごとに紹介します。

『新編武蔵風土記稿』

『新編武蔵風土記稿』による記述
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『武蔵名勝図会』

『武蔵名勝図会』
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『狭山之栞』

『狭山之栞』
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 各書が記すように、持ち去られて現物がないことが残念です。もし実在すれば、建武3年の状況が一度に実証されることになります。ところが、記載に気になることがあります。

1 名字の記載が異なる

それぞれの記載は図の通りです。少しずつ内容の違うことにご注意下さい。鐘が奉納された日、奉納者が次のようになっています。
『新編武蔵風土記稿』 建武3年3月13日  深井三郎源光義妻敬白
『武蔵名勝図会』   建武3年3月12日  井沢三郎源光義妻敬白
『狭山之栞』     建武3年7月20日  澤井三郎源光義妻敬白

 奉納者について、『新編武蔵風土記稿』が「深井三郎源光義と云える人は外に所見なし・・・」と記載するように、現在に至るまで解明されていません。この時代、戦勝祈願やお礼、戦乱により荒らされた神社仏閣の修復など、例えば前年には、
・新田義貞の寄進により武蔵国分寺薬師堂再建される
・尊氏、足立郡 佐々目郷を鶴岡八幡宮に寄進
などの機運がありました。豊鹿島神社にも何らかの働きかけがあったのかも知れません。それにしても、名字が三書三様であることが気になります。

2「上奈良橋村」かあったのか

 もう一つの問題はこの当時、「上奈良橋村」という「村」があったかどうかです。周辺地域では、村名は伝えられず「○○郷」のように広域にくくられています。

狭山丘陵周辺の中世の郷
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 豊鹿島神社の現在の本殿棟札には文正元年の銘があり、1466年の創建と確認されています。建武3年から約130年後です。その棟札には「武州多東郡上奈良橋郷」となっていて、「上奈良橋村」の名は記載されていません。

 折角の資料なのに、現物がなくて、残念極まりません。(2017.10.03.記)

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 豊鹿島神社

 豊鹿島神社に関わる地誌の記録

 奈良橋郷