略年譜 4中世
略年譜
4中世
1083(永禄3)~1087年(完治元年)後三年の役 宅部「御霊神社」について、鎌倉権五郎景正の家臣寺島小重郎がこの地に棲みつき、主君の霊を祀ったのが創始と伝えられ、小十郎は内堀を名のり神社に奉仕したという。子孫は本山修験の常覚院で神仏分離までは神社の別当を勤めていた。
1112(天永3) 「三光院開山円長没す」『新編武蔵風土記稿』
1159(平治元) 「円乗院開山法印賢誉入寂」『新編武蔵風土記稿』
1180(治承4)8月26日、河越重頼、畠山重忠、江戸太郎重長、村山党など、平氏に属し、三浦氏の相模・衣笠城を攻略した。
(1)鎌倉時代
1192(建久3)7月、頼朝、征夷大将軍就任=鎌倉幕府開設。
・武蔵武士は地方に守護・地頭として領地をあてがわれ分散。
1214(健保2)6月吉日、東大和市氷川神社(現・清水神社)創建伝承 石井美作の名あり 棟札の 写しあり(『狭山の栞』 p52)
1221(承久3)承久の乱、金子・宮寺・勝呂・山口・仙波・久米など村山党の武士ほとんどが北条方として参戦した。
1283(弘安6) 「弘安六年三月銘板碑」五十嵐墓地にあった。但し、自転車で持ち去られた。東大和市最古。(『五十嵐考』)。
1290(正応3) 「正応三年十一月銘板碑」五十嵐墓地にあった(『五十嵐考』)。
1294(永仁2)現存東大和市最古の板碑(東大和緑地出土)、郷土博物館にて展示。
・武蔵村山市中藤阿弥陀が峯に永仁(1292~98)の紀年銘を持つ板碑がある。
・狭山丘陵の峰に板碑、浄土教の世界が広まった。
・丘陵の谷ッに散住、郷村を形成、神社、お寺の創建が伝わる。
1333(元弘3)元弘の変
・5月8日、新田義貞が新田庄生品神社(群馬県太田市)で、後醍醐天皇からの討幕の綸旨(りんじ)を読み上げ一族150余騎で挙兵、太平記によ れば、大館、堀口、岩松、里見、脇屋、江田、桜井などの名が見える。
利根川を渡り、鎌倉街道上道を南下、20万余騎に達したとされる。
上野、下野、上総、常陸の武士とともに、江戸、豊島、葛西、河越、武蔵七党らの武蔵武士が加わった。
・5月11日、加治家貞は幕府方で新田義貞軍と小手指ヶ原・久米川で戦う (のち幕府軍敗戦)
・5月12日、新田軍は先手を打って攻撃を開始し、久米川に押し寄せた。 幕府軍は分倍河原(東京都府中市)に退いた。幕府は北条泰家(高時の弟) の軍10万騎を分倍に送った。
・5月22日、鎌倉を陥す⇒鎌倉幕府滅亡。
◎将軍塚 元弘の板碑(東村山市) 義貞に従軍してきた上野国の武士飽間一族で戦死した者を供養する。
1336(建武3)東大和市豊鹿島神社に建武3年(1336)の銘がある大鐘が奉納されていたとの記録がある。
(2)室町・戦国時代
1357(正平12) 年 (延文2)年
・6月1日、東大和市三光院開山快光法印入寂とする、寺伝。開基の石井美作は延文4年(1359)に没、寺伝。
・『新編武蔵風土記稿』では、天永3年(1112)5月3日、東大和市「三光院開 山円長没す」とする。
1368(正平23 )年 (応安元)年
◎貞治7年4月19日銘板碑 南無阿弥陀仏 狭山霊性庵にありとの記録が『 新編武蔵風土記稿』、『狭山之栞』p32にあり。
この年になっても「貞治7年」の年号を使用していることに注意
◎普済寺版に「宅部美作入道貞阿」「高木二郎左衛門入道」が助縁者として 記載される(『多摩のあゆみ』118 p45)
1374 (文中3)年(応安7)年 村山党解体 一揆に再編した時代
・8月9日、仙波信綱が一族の某と村山郷(武蔵村山市・瑞穂町)内の地頭 職をめぐって争い、勝訴している。
=惣領制の弛緩を示す。関東管領である上杉能憲が鎌倉公方足利氏満の意を奉じ、武蔵国村山郷内の下地を仙波某の押領を退けて仙波信綱方に沙汰し付けることを守護代と思われ る上杉憲方に命じた御教書である。(『東村山市史上』p436 『資料編古代・ 中世』p548)(『川越市史第二巻中世編』p299)
◎武蔵村山市・瑞穂町付近の一部を、仙波氏が地頭として統治した事を示す。
1403(応永10)年
・東大和市蔵敷に所在する五輪塔に応永10年銘が確認されている。生活文化財調査 p90。
1407(応永14)年
・東村山市正福寺地蔵堂尾垂木尻持送りに応永14年銘墨書がある。=正福寺地蔵堂創建(『東村山市史年表』p1048)
弘安元年(1278)、北条時宗(時頼)創建の伝承を持つ
1416(応永23)年 上杉禅秀の乱
・7月、久米川宿の旧領主岩松満純、上杉禅秀とともに鎌倉に挙兵。(『東村山市史年表』p1048)
・10月2日、上杉氏憲(禅秀)と持氏の叔父の満隆が持氏・上杉憲基邸を夜襲した。(上杉禅秀の乱)。
・持氏と山内憲基は破れ、持氏は駿河、憲基は越後に逃れる。
・憲基に従って越後に逃れた700余騎の中に、大石源左衛門(憲重?)・加治氏・金子氏がいた。
・持氏を追放した足利満隆と上杉氏憲(禅秀)は鎌倉を掌握し満隆は鎌倉公方を名乗った。
・根古屋城築かれるか?
1417(応永24)年 上杉禅秀の乱終結
◎1月20日、発給の「関東管領上杉憲基施行状」で「宅部下総入道」が居館の構築に関与したと考えられる「立河駿河入道」の庶子「立河雅楽助」 に「土渕郷田畠・在家・河原等」を「還補」するのに立ち会っている(多摩のあゆみ118 p64~79)(『立川氏館跡』p336)
◎立河雅楽助に還補された土地は日野市栄町地区に存在したと想定されている。(『多摩のあゆみ』118 p64~79)
1422(応永29)年
・9月、所沢市久米の永源寺に大石信重が奉納した梵鐘があった。
・大石信重はあきる野市東秋留二宮に居館があった。多摩郡を根拠にして、 入間郡へ進出していることがわかる。
1438(永享10)年 永享の乱始まる
・鎌倉公方・足利持氏と将軍・足利義教間に確執、管領の上杉憲実が両者の間に立ち融和を図るが、意見を聞き入れられず上杉憲実は上野に帰る。この時、下向を進めたのが長尾景仲と大石憲重であった。
・3月7日 板碑 宅部にあり 『狭山の栞p35
1439(永享11)年 永享の乱終息
・東大和市雲性寺堂宇建設との伝承あり。
天正元(1573)年、法印承永が再興、元禄年間(1688~1703)に、地頭石川太郎右衛門が新伽藍を整備
・2月3日銘板碑 東大和市雲性寺
1457(長禄元)年
・4月18日、「太田道灌築武州江戸城 于時廿五才」鎌倉大日記(『中世東国の道と城館』 斉藤慎一p91)。江戸城完成、居城とする。
・同年、河越城(上杉氏)、岩付城(道真)完成。
1466(文正元)年 (寛正7年2月28日に文政に改元)
・10月3日、豊鹿島神社棟札に墨書銘あり、「筆者 権律師□儀」 都内最古の室町建築物。
◎棟札に大旦那・源朝臣憲光、武州多摩郡上奈良橋郷と記されている。
1482(文明14)年
・村山土佐守・同雅楽助と一族の者が費用を出して、阿豆佐美天神社を修復する(『武蔵村山市史』上p701)
・武蔵村山市阿豆佐味天神社享保の棟札に「文明十四年、村山土佐守、奉行村山雅楽助」とある。(『武蔵名勝図会』)
1486(文明18)年
・7月26日 道灌、主君扇谷上杉定正の招きに応じて相模糟屋におもむき、 謀殺される。
1494(明応 3)年
・7月21日、山内・扇谷両上杉氏の抗争再発(『東村山市史』p253)
・山内上杉顕定が扇谷分国に侵入、8月15日、関戸要害(多摩市)、9月19日、玉縄要害(鎌倉市) を陥した。(石川忠総留書)
・山内上杉顕定が扇谷分国に侵入、関戸要害(多摩市)、玉縄要害(鎌倉市) を陥した。(『所沢市史』上p348)
・9月28日、伊勢宗瑞扇谷定正の要請に応じて久米川着 河越城から定正が来て対面
・10月2日、扇谷定正・伊勢宗瑞軍が高見原に進む。山内顕定軍と荒川を挟んで対陣。(石川忠総留書)
・10月3日、扇谷定正・伊勢宗瑞軍と山内顕定軍が荒川を挟んで対陣(塚田=寄居町)、定正が渡河中に落馬して死亡。(石川忠総留書)
1510(永正7)年
・5月、宗瑞、上杉顕定の領国に侵攻、宿老大石源左衛門尉(顕重か、法名道俊)が拠る多西郡椚田要害(八王子市)を攻略、城主大石氏を由井城に後退させる。(『黒田 戦国北条一族』p46)
1524(大永4)年
・1月13日、北条氏綱は、扇谷家の中枢が本拠を離れた隙をつくようにして、多摩川を越え江戸地域に侵攻した。
・江戸城には扇谷家宿老の太田資高・資貞兄弟が城代として留守を務めていたが、北条軍の侵攻を受けて、戦わずして開城。
・2月2日、氏綱、岩付城(岩槻市)を攻略。
1546(天文15)年
・4月20日、北条氏康 対 上杉憲政(山内)・朝定(扇谷)連合軍の川越での戦い。
・入間郡砂窪における北条氏康の奇襲によって連合軍が破れる。これより武蔵地方は北条氏の支配下に入る。
1550(天文19)年
・11月5日、豊鹿島神社修理される。 修理棟札 武州多東郡上奈良橋郷 大旦那「工藤下総入道」がある。
◎前年、1549(天文18)年4月14日、巨大地震発生。その影響か?
1558(永禄元)年
・蔵敷熊野神社創建 内野家の伝えによると蔵敷1ー1367に鎮座する巌島神社が永禄年間(1558~1572)前後の創立といわれるところから、同一時 期に創建されたものと推測される。
しかし、小島蔵之助氏方の古文書によれば、創建は天文2年(1533)とあり、社殿の造営は寛永 6年(1629)11月と記されている。
1559(永禄2)年
・2月12日、北条氏康「小田原衆所領役帳」を制定。
・北条氏が支配下の所領を書き上げた。中に、「他国衆」として三田弾正綱定、山口平六などの名が見える。
・山口平六 四拾貫文 山口内 大かね(鐘) 藤沢分 小野分(北野か?)とあり、地域が限定されている。東大和市域は氏照の支配下にあったことが推定される。
1560(永禄3)年
・3月、三光院梵鐘作られる。
梵鐘は永禄三庚申三月建立なるを正徳二壬辰年四月鋳替安永九年九月古鐘は峯薬師へ売渡し現存のものは新鋳なり。惣高龍頭迄四尺六寸口径三尺五寸。(『狭山之栞』)
・武蔵野の戦乱の影響を受けながら、東大和市域の村人達は生活の基盤を定着。
・後北条氏の支配下に入り、八王子城と繋がりをもった。
1561(永禄4)年
・1月21日、北条氏政(氏康の子息)が栗原彦兵衛(八王子市)に「炭焼之司」の地位を与える。(『武蔵村山市史』上p622)
・2月、長尾景虎、厩橋城(前橋市)から小田原城に向けて出陣
・正月、景虎軍は「河越籠城」「松山筋伏兵」をもって抵抗する北条軍を打ち破った。(『東松山市史』上p526)
◎『同(四月)廿八日ニ鎌倉ヲ打立玉フ先 武州六所明神ニ御参詣アリ諸軍士モ不意ノ変モ出ンヤト諸味一決シテ通リシカ共 敵兵ヲソヒ来ル者一人モナシ 六所ニ暫ク御在留ナリ』「謙信公御年譜」
・6月5日、北条氏照、多摩郡福生郷に制札を発給し、軍勢の狼藉を禁止 する(国立市史年表)
◎勝沼と滝山を結ぶ線上にあたる福生郷に出された禁制で、氏照が三田氏を攻撃するにあたって出された。(『福生市史』上p272)
・7月3日、宮寺与七郎が氏照の家臣・横地吉信から「金子掃部助一跡」をあてがわれる。
・7月、北条氏、三田綱定を滅亡させる。支配領域は氏照が由井領に加えて勝沼領を領有。(『黒田 北条一族』p156)
1563(永禄6)年
・3月、滝山城主北条氏照等、辛垣山(からかいやま)に勝沼城主三田綱秀を攻め、敗走させる。村山地頭員野半四郎は北条方の案内として出陣、 三田方に鉄砲で撃ち落とされる(『武蔵村山市史』上p698)(『多摩のあゆみ』10 p51 清水 利)
1564(永禄7)年
・5月23日、氏照が勝沼城主三田綱秀の旧臣三田、師岡の二人に朱印状を送り、三田氏の旧臣41人に対し清戸の番所勤務を命じている。午前8時前に箱根ヶ崎に集まり、清戸番所の警備に付けとの命令である。
◎氏照は三田氏の家臣団を解体せず、氏照の家臣団に再編成した様子がわかる。
1569(永禄12)年
・9月、武田信玄、大軍をもって信濃を経て碓氷峠から上野に入り、鉢形城、滝山城を攻め、ついで小田原城を攻む。
信濃佐久地方から群馬の碓氷峠を越え関東侵入。9月9日、武蔵鬼石の御嶽城攻撃、10日、鉢形城包囲、外郭で合戦。
・10月1日、廿里(とどり)で合戦、10月2日、滝山城攻め。3日には小田原に向かう。(『よみがえる滝山城』p29~30)
◎清水村氷川神社御神体絵馬
神体とするもの絵馬の如にして、表は素盞烏尊、稲田姫、猿田彦、左右に貌狛(ぼうはく)を彩色にて写したれども、剥落してかすかに残れり、永禄十二年 (1569)の裏書あり、圖下に載す、(『新武』)
◎蔵敷厳島神社創建伝承あり(内野家) 小島家では天正6年(1588)とする。
1573(天正元)年
・東大和市雲性寺を法印承永が再興、元禄年間(1688~1703)に、地頭石川太郎右衛門が新伽藍を整備との記録あり。
永享11年(1439)堂宇建設の伝承あり。
1576 (天正4)年
◎・鹿島神社棟札 武州多東郡上奈良橋郷 大旦那と思われる位置に 細野主計殿 番丈衆十人御力合と墨書されている。
1582(天正10)年
・3月11日、武田勝頼が信長に攻められ天目山の戦いで敗れ、武田氏滅亡
◎このことを契機として、武蔵村山市には武田家遺臣の来応が伝承される 長円寺縁起=武田家旧臣波多野氏が再興
・4月12日、甲斐から落ち延びてきた武田勝頼の家臣・加藤丹後守景忠と夫人、一族が箱根ヶ崎円福寺で自害、位牌、墓石が残されている。
墓石には4月11日討ち死にしたことを記す。(『武蔵村山市』史上p689)
・6月2日、本能寺の変、織田信長没。
・10月29日、後北条氏と徳川氏間で講和、武田氏旧領の内、上野を後北条氏、甲斐、信濃を徳川氏が支配することに「国分協定」を締結
・12月27日、北条氏照が武田の家臣宮谷衆の小坂新兵衛に「村山の内立川分」の地を与える朱印状を出している。
「村山の内立川分は荒野の地であるから、開発次第、その者に知行として与える、至急その地に移り、居住せよ」
「玉川の内には他国衆は置かない」
「宿を立て、免税の特権を与える」とするものである。多摩川から西は北条本領であり、村山は周辺地とみられていることがわかる。(『武蔵村山市史歴史編上p680)
1584(天正12)年
・3月13日、村山土佐守・村山雅楽助が阿豆佐美天神社を再修する(『武蔵村山市史』上p701)
1590(天正18)年
・1月、氏照ら小田原城に籠城
・4月、秀吉、小田原城を取り囲む。
・4月27日 江戸城開城
・5月、伊達政宗、会津を進発、小田原に向う、
・5月19日 山口平内、武州岩付城に籠城し、豊臣方浅野長政らに攻められて討死す。(古戦録)
・5月22日 岩付城開城
・5月 河越城開城
・6月14日 鉢形城開城
・6月23日 八王子城開城 24日 前田利家八王子城下に禁制 27日 木村常陸介 八王子城の降人を在地に還住させる
・8月1日、徳川家康江戸城に入る
◎杉本家28代勘解由種繁(寛永13・1636年6月14日没)、当代天正18年7月以前は小田原北条の領であったが、同年7月以降は徳川の領となる。 この改革事務一切に関与したのである。(代々のかがみ)
1591(天正19)年
・5月、酒井実明が芋窪村と高木村450石を給せられる
・5月14日、秀吉、家康に鶴岡八幡宮の造営を命ずる。(松尾 『中世都市 鎌倉の風景』p74)
・7月、江戸城修築開始
・11月、清水村氷川神社に家康から5石の領地が与えられた。字中田の田4枚分、二代秀忠、三代家光、八代吉宗の朱印三通が現存
・11月、清水村三光院に家康から3石の領地が与えられた。(『新武』)
1592(天正20)年 (文禄元)年
・2月、奈良橋村(蔵敷村を含む)が石川太郎右衛門の采池に属す (明治13年蔵敷村誌 町史研究4p54)
・2月25日、芋窪村、奈良橋村、高木村を旗本石川太郎右衛門、酒井極介(極之助)、同郷蔵の知行分けの文書あり。(『所沢市史史料 』p628)
(2018.02.09.記)