豊鹿島神社の要石2
豊鹿島神社の要石2(『武野遊草』)
要石に関しては江戸時代の見聞の記録があります。
寛政7年(1791)9月30日~10月12日にかけて、江戸青山の住人清痩園主人=石子亨が妻の父親である大久保狭南を訪ねて清水村(現・東大和市清水)に来ました。高尾山や青梅、所沢方面を遍歴して、克明にその記録を残し「武野遊草」としてまとめました。
「・・・夕陽の頃、清水に帰ると、五十嵐氏が来て、芋窪の鹿島の宮へお参りして、要石を見ようではないかと誘われた。そこで、また、清水を出て、高木、奈良橋などの村を過ぎて、蔵敷村で道を原の中に進んだ。十四~五町(1.6キロ)ほど行くと、塚があった。方十間(18メートル四方)ばかりもあるだろうか。
古松が二株生えている。樹の下は茨が生えて、勢いよく茂った中に、その石はあった。形は図に描くとおりである。石は地下に埋まり、いたって深いと村の老人が云う。中古、要石とは知らず、このように畑の中央にあるので耕作の妨げとなり、地元の人々が集まって力を尽くして掘り上げようとしたが、石の根は下に行くほどますます広大で掘り上げることができず、空しく止めたという。
◎この記録により、1791年当時、要石の場には四角い「塚」があったことがわかります。周辺は江戸時代初期から、畑地として新田開発されて居ます。その中で、古い松の木が2本植えられ、特別の場所として区切られていたようです。一面の畑の中に際立っていたことでしょう。茨が覆っていたことは、当時の武蔵野の植生にヒントを得ます。
武野遊草の記事はそこに18メートル四方の「塚」の存在を貴重な証言として残してくれました。『狭山之栞』が指摘する庵室と関係があったのかも知れません。