内堀先生の碑

 狭山神社の表参道左側、狭山公民館前に碑があります。
 狭山地域の教育者として名高い「内堀先生の碑」です。

狭山神社表参道左側、狭山公民館前に立つ内堀先生の碑 
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この地は明治の学校「高狭学校」「第三村山尋常小学校」のあった場所でした。
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 内堀先生は、村山貯水池の湖底に沈んだ内堀地域に、幕末の嘉永6年(1853)6月、誕生しました。
 江戸に出て学び、明治維新と共に帰村します。

内堀先生誕生の地と研精学舎(けんせい)旧地
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 明治6年(1873)、宅部村(現在の村山貯水池に沈んだ)と清水村の二村で三光院境内に設立された「研精学舎(けんせい)」の教師となります。
以後、大正7年(1918)までの経過が碑に刻まれています。

内堀先生の碑
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 碑文は次の通りです。

内堀先生の碑

 内堀先生、名は太一郎、号弘毅、内堀左兵衛長男、嘉永6年(1853)6月生まれ。牛込にある幕臣渋谷氏の家臣となる。
 人となりは敏捷で読書好き。昌平黌で学び、明治維新で狭山村に帰り、塾を開き子弟の教育に当たる。

碑前面 
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 明治6年(1873)学制発布で小学訓導になる。10年(1877)研精・竭力二舎が高狭学校となり、28年(1895)第三村山尋常小学校に
改称。39年(1906)高等科、大正2年(1913)実業補習科が出来、その間45年校長兼訓導として勤め、官から表彰される。
 先生は長身で、豊肥、勤勉で天職として生徒を育英し、3人の子も皆良く育っている。今66歳で勇退し、
 村会から銀杯を贈られる。門人がその徳を不朽として碑を建てた。
 大正7年(1918)4月
  (裏に第三村山尋常小学校教員、卒業生の名が並ぶ)(砂田さと子氏解読)

「報恩感謝の記」

「報恩感謝の記」
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 ここには刻まれていませんが、明治20年代、狭山地域で13才~14才の青年達が自ら学びが必要と夜学を開きました。一方で、先輩から教わって、秋祭りのハヤシをテレスコ、テレスコと練習するグループがあり、対立しました。この中に立って、身銭を切って面倒を見たのが内堀太一郎氏でした。狭山神社に夜学を開いた「共励学会」が「報恩感謝の記」の額を奉納しています。


 ①この碑は狭山神社境内にありました。平成9年(1997)9月、学校とゆかりのあるこの地に移設されました。
 ②明治6年(1873)、宅部村(現在の村山貯水池に沈んだ)と清水村の二村で三光院境内に「研精学舎(けんせい)」が設立されます。
 ③明治10年(1877)2月、高木村と後ヶ谷村で設立されていた「竭力学舎(かつりき)」と「研精学舎(けんせい)」が統合されて円乗院境内地、現狭山公民館敷地に「高狭学校」(たかさ)が設立されました。
 碑は「高狭学校」の跡地に建てられています。

 (2018.07.15.記)

明治の小学校2

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