村山貯水池の建設(測量)

 明治45年(1912)5月、村山貯水池建設案が決定されると、早速、執行体制が整備されました。
・大正元年(1912)9月7日、内務大臣原敬から村山貯水池建設について、内閣の認可の訓令
・大正元年10月、東京市水道課に拡張準備掛を設置
・大正2年(1913)11月、水道拡張庶務規定制定、水道拡張事務所を設置
 中島鋭治博士を顧問とし、実施設計の調査を開始
・大正2年から大正8年(1919)に至る7カ年の継続事業となりました。
 いよいよ、測量の開始です。

測量関係事務所の設置

・大正2年(1913)11月 東京市 水道拡張事務所諸庶務規定制定、水道拡張事務所を設置
・大正3年(1914)1月9日 武蔵野村字境観音院に水道拡張事務所境詰所を設置
          1月10日 芋窪村蓮華寺に村山詰所(職員の詰め所)設置 
          1月27日 土地立ち入り許可
                       3月31日 東京市私設電話架設
          9月1日  村山詰所を芋窪2053番地(豊鹿島神社付近)に移動 

 現地では、蓮花寺に「村山詰所」が設けられ、さらに内堀と上宅部の民家に技師たちの宿泊施設が設けられました。なお、武蔵村山市史は
 「この間、北多摩郡の岸、三ツ木、中藤、芋窪、西多摩郡福生、熊川の各村に、延べ人数で四二六七人が動員されて調査が行われた。」としています。(通史編下巻p288)
 武蔵村山市史に記されている西多摩郡の村名から、このときの測量は羽村の取り入れ口から福生、熊川、砂川、中藤を経て村山貯水池に至る「導水渠=羽村村山線」の関連も調査されたことがわかります。

大正3年(1914)村山貯水池測量関係図 クリックで大

測量と住民

 測量関係の職員は地元に住み込んで作業をすることになり、宅部村の内堀小十郎宅と清水村(上宅部)の原仁兵衛宅が宿舎になりました。内堀小十郎氏は「湖底に沈んだふるさと」を書かれました。その中で次のように記します。

 「大正三年の春頃と思う。はじめて測量士がやってきた。貯水池の実地測量である。紅白のポールをかついだ人や、測量器械らしきものを持った技師が二、三人来た。
 なにしろこの田舎の山の中では見たこともない洋服の紳士が来たのだから大さわぎ。はたを織る娘達は、皆その手をやすめて、そちらに目を向ける。

 測量は、技師と八王子税務署の役人が立会いのもとで毎日行なわれた。
 当時は、近くに旅館もないので、内堀部落では、私の家を技師達の泊り宿にしてくれと村人からせつない願いもあったので、止むなく引き受けることにした。まだほかにも上宅部の原仁兵ヱ氏宅が宿泊所になったと聞いている。
 とりあえず障子の張り替えや畳の表替えなどで、忙がしく準備をしたものであった。何分にも相当広範囲にわたっているので、技師達もなみたいていではない。疲れて帰ってくると晩酌の用意がしてある。なかなか丁重にもてなしたようだ。

 村の顔役や青年団の幹部が毎晩やってくる。ご機嫌をうかがいながら自分の所有している土地や物件の状況、その金額の概算などを聞いて帰る。ともかく、ろくな収入もない時代に土地代金や移転料がたくさんもらえるのだから村中は大喜び、あまり反対者もなく、ひたすらその成り行きを待ちあぐんでいた。調査や測量はずいぶん綿密に行われた。

 例えば、畑に植えてあるお茶や桑株(くわかぶ)が幾らあるとか、家の周囲にある木の大きさ、墓地の石塔の数まで、こと細かに調べたのである。こうした日がおよそ一か月続いたろうか」
 としています。同時に、先祖代々の土地を手放すにことになることから、家族会議で大喧嘩になったとの深刻な話も伝わります。

 長々と紹介しましたが、同じ年(大正3年・1914)1月、芋窪村蓮華寺に村山詰所(職員の詰め所)が設置されると、村人の間で、住民の死活問題として移転住民大会が開かれます。ついには建設反対運動に進みます。
 それとは違った空気があったこと、複雑な多様な背景があったことが推測されますので、最初に記しました。

「村山詰所」が設けられた蓮花寺のあった上貯水池の現状 クリックで大

 (2019.1.5.記 文責・安島喜一)

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