村山貯水池(多摩湖)の湖底に沈んだ村の産業

 湖底に沈んだ村は周囲を山林で囲まれ、中央を流れる石川・前川に沿って水田が営まれ、山林との間に畑地が広がっていました。その状況は下図と表の通りです。

湖底に沈んだ集落の様子 クリックで大

 狭山丘陵の大きな谷に成立した集落であり、土地利用でした。そのため、丘陵上部をに山林が占め、川筋に向かってつくられた段差を利用して、階段状に家屋と畑と水田が作られました。そのため、水田の規模は小さく2坪(6㎡)程度のものがあったとされます。

1水田

 水田は中央の石川・宅部川に沿って営まれました。水利が石川・宅部川に堰を設けたり、丘陵からの湧き水を溜めた池の水を利用したこともあり、生産性は高くありませんでした。内堀地域の状況を図にします。

湖底に沈んだ内堀地域の集落と水田 クリックで大

 稲作の具体的な状況は『多摩湖の歴史』が次のように記します。

 「田では米が作られたが、年中水びたしの状態で、ドブ田と呼ばれた。そのため田一反(約一〇〇平方メートル)で年五俵(約三〇〇キログラム)程度の米しかとれず、これは当時の全国平均のとれ高とくらべるとたいへん低い。しかしここは旧大和村のなかで田が最も多いところであり、日本の農業が米作を中心としていたことを考えると、たとえ一反当りの米のとれ高は少くても、旧大和村全体の農業生産のなかでは、貴重な水田耕作地であった。

田植えと直播
 米作のおこなわれる田には、
・植付田=田植えをするもの
・蒔付田(まきつけだ)=田植をしないで、直接、田にモミを蒔くもの=直播(じかまき)
 の二つがあった。ドブ田は蒔付田てある。「田植えをする田は少しであった」(内堀英一)。

 植付田に植える苗は、共同苗代で育てた。共同苗代は一九〇七(明治四〇)年からおこなわれるようになったと伝えられているが、個人で作るよりも良い苗が年られて「荒ケ谷戸の人の中には、東京府の品評会で入賞し、優勝旗を飾って記念撮影をしたことがある」(宮崎誓)という。

ドブ田と堰
 沢のふちにあるドブ田は、泥深くて腰までもぐる深さであった。ここでの農作業は渡り木として松丸太を一尺(約三〇センチ)くらいの深さに沈めておき、足さぐりでその上を歩いて、種蒔きその他の作業をおこなった。たいへんな苦労だった。

 田用水は宅部川に堰をつくり、水を引いた。堰は九月過ぎになるとこわれるので、毎年補修した。
 沢の水は冷いので、デビツクリという迂回の水路をつくり、水温を少しでも高くしてから田に引いた。かんばつ溜池の水は干魅のときに使った。」(p230~232)
 『東大和のよもやまばなし』に「内堀部落の女堰」が伝わります。

2畑

 畑は森林と田の間に作られました。水田がありながら、収穫した米はほとんど売りに出し、日常生活の食料は畑から得たと云われます。しかも、農業だけでは生活は成り立たず、養蚕や製茶が副業として重要な位置を占めました。その場が畑でした。『多摩湖の歴史』から引用します。

「畑には食料とする麦・粟・甘藷などのほかに、桑や茶が作られていた。桑は蚕の餌であり、茶は飲料として売出されたが、どちらも農家の現金収入のもととして大切なものであった。

 畑の作物は、オカボ・大麦・小麦・粟・大豆・小豆・サツマイモ・ニンジン・ゴボウ・菜・大根・白菜・ネギなどである。このほか、ジャガイモ・サトイモを作ったという話も聞いたが、確かではない。

 寒い時には畑での作業はおこなわれないが、この期間、堆肥づくりがおこなわれる。
 三月に入るとサツマイモの苗床をつくる。堆肥にしない落葉をワラで囲ってサツマ床をつくり、水を掛けて腐らせ熱を出させる。この床に種イモをいけて芽を出させ、苗をつくる。サツマ苗は麦の畝間に植えた。
 四月から五月にかけて、ゴボウ・オカボを直蒔する。野菜類もこの前後に蒔くが、作る量は少なかった。六月は麦苅りで、梅雨の間も苅った麦を畑で干した。畑の草取りは五月から一〇月までの間、しょっちゅうやった。」(p230)

 この地域に伝わる農事暦は次の通りです。

 1月、堆肥用のクズハキ
 2月、堆肥の切り返し
 3月、桑の木の剪定や追肥
 4月、夏草取り、桑の木の手入れ
 5月、春蚕の世話
 6月、蚕の世話、繭の収穫
 7月、桑の木の管理、蚕の世話
 8月、大根、白菜巻き付け、蚕から繭の収穫
 9月、蚕の世話、小豆の収穫
 10月、ニンジン、ゴボウ、里芋などの収穫、蚕の世話
 11月、大麦・小麦の蒔き付け、大根・白菜の採り入れ、桑の木の養生
 12月、麦の中耕、麦踏み

下貯水池の状況
石川・宅部川を中央にして、日照のながい北側に集落、林の下段に畑、川に沿って水田がありました。
クリックで大

3農業以外の産業

 農事暦で紹介したように、農業のほかに養蚕や製茶も副業として行なわれました。茶の木は畑の一部にほとんどの農家で植えられました。一部で、所沢や八王子へ売りに出したそうですが、ほとんどが自家用でした。
 商店は一軒が『東大和のよもやまばなし』に「馬方勝っあん」として伝わります。
 なお、村山絣の考案者の一人として石川の荒畑源七さんが貴重な伝承を残します。「村山絣」にまとめます。
 山林業と機織については『多摩湖の歴史』が次のように記します。

山林業
 「山林は自家用に利用されることの方が多く、木を伐って売ることは少なかった。
 湖底の村の人々は、農業の合間には、みんな木挽きをするといってよい状態であった。「冬になると薪山を大きな地主から買って、木挽きに伐って貰って、それを売ることもあった」(木下勝)。木挽きには一束いくらとか、一束伐り賃いくらとかで手間賃を払った。木挽きに伐らせた大きな木は材木屋へ売ったが、残りは薪に使った。

 山(山林)を持っている人は少数であったが、その中には一〇町歩(一〇ヘクタール)ほど持っている人がいた。
 「山を多く持っていた人は、ドイッの染料でもうけた人で少しずつ山を買い集めていったものである。成木には一五年前後を要したが、当時、山林には税はかからなかった」(木下勝)。
 また炭焼きもかなりおこなわれていたという。この炭焼きについて、時代は江戸時代末期にさかのぼる。」(p236)

村山下貯水池に置かれた「村山絣」のモニュメント

機織
 当時の人の言葉に、谷戸の名物といわれたのは機織であった。宅部の谷戸では女児の誕生を喜んだというが、機の織手としての女手は確実な現金収入源として尊重されたことを物語るものである。女性は一一、二才になると全員機を織った。木綿機で一日一反織るのが一人前とされていた。

 機屋(はたや)とか紺屋(こうや)とか呼ぼれている家があって、そこからツボといわれた織子の所へ賃機(ちんばた)に出されるのである。織子は朝早くから深夜まで機を織る手を休めなかった。(p237)

 この機織りの基となった村山絣を江戸時代に考案したのが石川の荒畑源七さんでした。村山下貯水池にモニュメントが置かれています。村の食生活については次に記します。

(2019.01.14.記 文責・安島喜一)

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