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東大和の歴史

御霊神社

御霊神社 村山貯水池の湖底に沈んだ区域に、江戸末期戸数28戸、明治12年(1879)氏子数98戸の内堀と呼ばれる集落がありました。村人達は「内堀村」を名乗りたかったようですが、江戸時代から明治8年(1875)まで「宅部村 …

円乗院

円乗院 所在地 狭山三丁目 1354番地 新義真言宗、智山派。本尊・不動明王。 愛宕山医王寺圓乘院東円坊。 狭山丘陵の中腹に位置する平安時代末期の創建を伝えるお寺です。 市内の寺院の多くが武蔵村山市中藤の真福寺末ですが、 …

殉国産業戦士供養塔(円乗院7-1)

殉国産業戦士供養塔(円乗院7-1) 円乗院の本堂左奥には、忘れてはならない第二次世界大戦中に係わる供養塔の一つがあります。千体地蔵尊に見守られるようにまつられています。現在の桜が丘、立野地区に起こった痛ましい戦争の犠牲に …

山の神が原にまつられた

狭山神社本殿の石段を登ると左側に山神社があります。 歴史的には村人達が居住地としていた狭山丘陵南麓から遙か南の畑が続く一角にまつられていました。 いつ頃からまつられたのか創建年代については、古書が 『新編武蔵風土記稿』 …

石神の話(東大和のよもやま話)

村山下貯水池の建設とともに、湖底に沈んだ上宅部に伝わる話です。下の堤防から二つの取水塔が見えます。その奥の方に近いところでした。 そこは、石塔前という特別の名前で呼ばれていました。村人達にとって、大事な大事な「石神」様が …

かたき討の話(東大和のよもやま話)

天保年間、天候が安定せず、飢饉、物価高が続きました。80%の村人達が飢えて、お互いに融通し合って過ごす中で、行き倒れや捨て子の記録とともに、長脇差や刀を帯びた「無宿」や「渡世人」が渡り歩いたことが伝えられます。 その時、 …

大まかな歴史の流れ 5 近世 4 荒れる村

1踏んだり蹴ったりお犬様 狭山丘陵周辺の生類憐れみの令 延宝8年(1680)8月、五代将軍に綱吉が就任します。武蔵野開発に力を入れた三代将軍家光の四男です。放漫になりかけていた幕制改革に着手しました。一方で、生類憐れみの …

大まかな歴史の流れ 5 近世 3生産性の低い新田 農間稼ぎ

1 空堀川までが日常生活圏 早くに済ませた新田開発 一般的に大々的な武蔵野の新田開発は享保7年(1722)、江戸日本橋高札場に掲げられた武蔵野新田開発奨励のお触れ以降急速に進んだとされます。 しかし、東大和市域内では承応 …

略年譜 4中世

略年譜 4中世 1083(永禄3)~1087年(完治元年)後三年の役 宅部「御霊神社」について、鎌倉権五郎景正の家臣寺島小重郎がこの地に棲みつき、主君の霊を祀ったのが創始と伝えられ、小十郎は内堀を名のり神社に奉仕したとい …

大まかな歴史の流れ 5 近世 2 玉川上水・野火止用水の開削、細長い村

1玉川上水・野火止用水の開削 江戸市中の整備・家臣団の集住  江戸市中の整備が進むにつれ家臣団が江戸に集住するようになりました。 ・元和2年(1616)、駿府詰めの家臣団が江戸に移住、神田台を開拓、駿河台と称しました。 …

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