幕末(安政3年・1856 東大和市)の村の様子

幕末(安政3年・1856)の村の様子
 
 幕末の村の様子です。
 統一的に記録する資料が少ない中で、安政3年(1856)の状況を『里正日誌』が伝えます。記述が簡略化されていますが、江戸末期の村の様子が読み取れます。先ず、東大和市域内の村々について引用します。
 
 村々の名前と位置は文政12年(1829)に行われた、文政改革村組合の村々によります。村名など現在と異なることがありますのでご留意下さい。東大和市域内では図の宅部村と後ヶ谷村が合併して狭山村になっています。

文政12年(1829)に行われた、文政改革村組合の村々
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東大和市域の村々
 
・狭山丘陵の麓に本拠を置き、玉川上水、野火止用水際まで新田開発をしたため、
・縦に長く、境界の入り組んだ村々が出来上がりました。
・ほぼ1600年代末に両用水際にまで開発が進みました。

東大和市域の安政3年(1856)の村の状況
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清水村(しみずむら)

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高372石1斗3升5合
 内
 46石1斗3升5合 江川太郎左衛門代官所
 326石     浅井武次郎
家数60軒
人数 男146人
   女154人
   馬10匹
 3石 三光院
 5石 円達院(氷川明神)
 
一 狭山付き村(狭山丘陵とその前面の武蔵野台地に成立した村)です。
一 男女、農間の稼ぎ 男は樵(きこり)炭焼き 女は木綿糸より、同機織り、
  江戸並びに最寄りの市場へ持ち出し稼ぎをしています。
一 産物柿栗、江戸並びに最寄りの市場へ持ち出しています。 
 
後ヶ谷村(うしろがやむら)

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 高203石9斗2升4合
 家数48軒
 人数 男129人
    女126人
    馬10匹
一 除地6畝20歩 円乘院
一 除地7畝20歩 愛宕神社(円乘院管理)
一 除地5反1畝6歩 山神(円乘院管理)
 
一 狭山付き村(狭山丘陵とその前面の武蔵野台地に成立した村)です。
一 男女、農間の稼ぎ 男は樵(きこり)炭焼き 女は木綿糸より、同機織り、
  江戸並びに最寄りの市場へ持ち出し稼ぎをしています。
一 産物柿栗、江戸並びに最寄りの市場へ持ち出しています。 
 
宅部村(やけべむら)

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高165石
家数40軒
人数 男106人
   女98人
   馬11匹
 
一 5畝18歩 御霊免(修験常覚院が管理する御霊神社)
一 狭山付き村(狭山丘陵とその前面の武蔵野台地に成立した村)です。
一 男女、農間の稼ぎ 男は樵(きこり)炭焼き 女は木綿糸より、同機織り、
  江戸並びに最寄りの市場へ持ち出し稼ぎをしています。
一 産物柿栗、江戸並びに最寄りの市場へ持ち出しています。 
 
高木村(たかぎむら)

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高188石4斗8升6合
高123石4斗8升6合 江川太郎左衛門
家数29軒
人数 男84人
   女92人
   馬12匹
 
高65石 酒井才次郎知行
家数27軒
人数 男78人
   女74人
   馬7匹
一 除地1反2畝歩 明楽寺
一 除地5畝20歩 権現堂(明楽寺管理)
 
一 狭山付き村(狭山丘陵とその前面の武蔵野台地に成立した村)です。
一 男女、農間の稼ぎ 男は樵(きこり)炭焼き 女は木綿糸より、同機織り、
  江戸並びに最寄りの市場へ持ち出し稼ぎをしています。
一 産物柿栗、江戸並びに最寄りの市場へ持ち出しています。 
 
奈良橋村(ならはしむら)

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高232石9斗2升9合
家数59軒
 男158人
 女153人
馬23疋
一 除地2反5畝 雲性寺
一 除地6反 八幡神社(覚宝院管理)
一 除地6反 山王社(覚宝院管理)
 
一 狭山付き村(狭山丘陵とその前面の武蔵野台地に成立した村)です。
一 男女農間の稼ぎ 男は樵(きこり)炭焼き 女は木綿糸撚(より)、同機織り、
 江戸並びに最寄りの市場へ持ち出し稼ぎをしています。
一 産物柿栗、江戸並びに最寄りの市場へ持ち出ししています。 
 
蔵敷村(ぞうしきむら)

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高215石7斗4升6合
家数55軒
 男 131人
 女 143人
 馬12疋
 
一除地3畝 太子堂
 
一 狭山付き村(狭山丘陵とその前面の武蔵野台地に成立した村)です。
一 男女農間の稼ぎ 男は樵(きこり)炭焼き 女は木綿糸より、同機織り、
 江戸並びに最寄りの市場へ持ち出し稼ぎをしています。
一 産物柿栗、江戸並びに最寄りの市場へ持ち出しています。
 
◎村人たちは「蔵敷村」を使用していますが、公的には「奈良橋村蔵敷分」でした。 
 
芋窪村及び隣接する村々
 
 ・残念ですが、当時、芋窪村は所沢村組合ではなく、拝島村組合に加入していたため、同一の資料がありません。
 ・隣接地として親しまれるのが廻り田、野口、久米川村、狭山丘陵北側では山口村、そして所沢村です。
 ・山口村には、山口観音があり、多くの参拝者が訪ねました。ところが、村名としては明治8年(1875)まで、新堀村(にいぼりむら)でした。
 ・経済的な結びつきが強かったのが所沢でした。所沢には市場が営まれていたことから様々な面での交流が行われました。
 ・一例として、山口観音のまつられた村、新堀村をあげておきます。

多くの人々が、親しく山口村と呼ぶ地域ですが、当時の村は新堀村(にいぼりむら)でした。
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隣接する村々についてはページをあらためます。
 
 
 (2023.07.28.記 文責・安島喜一)