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東大和の歴史

おんじー!?

  東大和市の現・狭山地域が後ヶ谷村(うしろがやむら)と呼ばれていた江戸時代の話です。   地元の杉本家に伝わる貴重な古文書に宗門帳があり、当時の家族構成がわかります。    寛政6年までは中核となる家族構成は4人から6 …

飢饉で子どもが産めなかった

 文政年間(1818~1829)の村(蔵敷村)の姿    子どもが生まれなくて、村は維持できたのか?  ずっと疑問に思っていたのが左の表です。  江戸時代の村の人口の増減と自然条件の関係はどのような実態だったのか?  そ …

江戸時代の村の人口(蔵敷村)

 江戸時代、村の人口はどのように推移したのでしょうか?  東大和市を構成していた村の一つに「蔵敷村」(ぞうしきむら)があります。    狭山丘陵に刻まれた谷ッに本拠を構え、その南に広がる武蔵野の原を新田開発した村です。 …

東大和市は海の中にあった

 こうお話しても、「へー・・・」と疑いの視線が帰ってきます。  子供達はたいてい「ウソだ―」「証拠見せてよ」と迫ってきます。  でも、東大和市の歴史に関する説明はそこから始まります。  左は『東大和市史資料編2多摩湖の原 …

円乗院 1 鐘楼門前

円乗院 1 鐘楼門前 所在地 狭山三丁目 1354番地 新義真言宗、智山派。本尊・不動明王。 愛宕山医王寺圓乘院東円坊。 狭山丘陵の中腹に位置する平安時代末期の創建を伝えるお寺です。 市内の寺院の多くが中藤の真福寺末です …

天保の飢え人

 天保年代(1830~43)は、寛政・天保小氷期と云われるほど、寒冷化が特に厳しい時代でした。  冷害に見舞われ、作物の不作が続き、農村は飢饉に襲われました。  東大和市域の村々は猛烈な飢饉により、下記の表のような飢人が …

稗と粟が主食だった

 江戸時代も末、東大和市の農業の実態です。  蔵敷村に残された里正日誌によって少し分かってきました。  天明年間(1751~88)の天災~不作~飢饉は有名ですが、文化、文政期にもそれは続き、農村は疲弊しました。  文政4 …

千葉卓三郎が奈良橋村に滞在

五日市憲法草案の作成にあたった千葉卓三郎が奈良橋村(現・東大和市)に滞在していました。 深沢村(現・あきる野市五日市)の観能学校の教師であり、「五日市憲法」の草案つくりの最終段階にありました。 明治14年(1881)、奈 …

自由民権運動 東大和市版

自由民権運動 東大和市版  東大和市の自由民権運動について、市民大学で学ぶチャンスが来ました。  五日市憲法の草案をつくったとされる千葉卓三郎が一時東大和市に滞在しました。  そこに焦点が当てられています。  また、同時 …

東大和市の明治の小学校1

   東大和市に最初の小学校がつくられたのはいつ? どこに? どんな様子で?  知りたいです。 残念ですが確実な資料が残されていません。 明治8年(1875)11月の卒業証書を見ることができました。 研精学校(けんせいが …

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