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東大和の歴史

アメリカ軍の空爆により工場壊滅

 軍需により拡張を続ける日立航空機(株)立川発動機製作所(以下立川工場)は昭和20年(1945)、米軍の空爆を受けました。工場群は完全に破壊されました。その経過は次の通りです。 昭和20年(1945) ・1月19日、政府 …

工場の疎開

 昭和19年(1944)6月、米軍がサイパン島に上陸、日本の戦局は一挙に悪化します。アメリカ軍の直接攻撃を受けるようになりました。11月24日、中島飛行機、武藏製作所がB29の爆撃を受けました。12月には軍部から、工場の …

専用鉄道の設置(現・西武拝島線の一部)

 現在の西武拝島線、そのうちの小川駅から玉川上水駅までの間が出来たときの話です。日立航空機(株)立川工場への専用引き込み線が基になっています。 東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ移ってから間もな …

東京瓦斯(ガス)電気工業(株)から日立航空機(株)立川工場へ

日立製作所との合併  昭和14年(1939)5月15日、当時の大和村に工場建設中の東京瓦斯電気工業(株)は日立製作所と合併しました。そして、子会社の日立航空機株式会社を設立しました。合併の理由は国策によるとされます。小松 …

東京瓦斯(ガス)電気工業(株)の工場建設

村山貯水池の建設の影響を受けて、村の運営にも経済的な危機が押し寄せていた昭和13年(1938)のことです。松林と一面の畑が広がる村の南端の地に、工場建設の動きが起こりました。東大和市のまちづくりに大きく影響を与えた東京瓦 …

日立航空機(株)付属青年学校跡

 今では、想像も出来ませんが、画像の位置に「青年学校」がありました。昭和14年(1939)に日立航空機株式会社の工場の付属施設として設けられました。戦時中の教育施設です。全国から青少年が集められました。この学校で学び、戦 …

板碑の集中埋納

 板碑は単独、お地蔵様と一緒、覆屋の中・・・など、様々にまつられます。今回は東大和市内で江戸時代に集中して埋納されていた例を紹介します。狭山の杉本林志氏が著した『狭山之栞』に次のように紹介されています。    「古碑図  …

永仁二年(1294)板碑

狭山丘陵周辺の板碑  狭山丘陵周辺の板碑の造立は次の通り、13世紀後半に始まります。   市名               最古      最新  入間市   建長2年(1250)  所沢市   建長8年(1256)   …

板碑(東大和市)

 中世を語り解明する有力な資料に「板碑」があります。秩父産の青い岩石(緑泥変岩)を材料にして、石板状にしたものです。「青石塔婆」とも呼ばれます。産地が近かったことと鎌倉街道が通じていたことから、武蔵には多数(約4万基)が …

宅部美作入道貞阿(やけべみまさくにゅうどうじょうあ)(1368年)

  中世、東大和市にはどのような人々が活躍したのでしょうか?   その一人に宅部美作入道貞阿がいます。普済寺版経典(1368年)に名が記されている人物です。     中世になると、仏教の経典はこれまでの書き写し中心から木 …

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