奈良橋郷(東大和市)

奈良橋郷(ならはしごう)

 狭山丘陵周辺の中世の郷に「奈良橋郷」がありました。狭山丘陵の中世の郷は一般的には
・丘陵北部 山口、久米川、荒畑、宮寺
・丘陵南部 村山、宅部
 とされます。これに加えて奈良橋郷があったことがはっきりしました。

狭山丘陵中世の郷 クリックで大

 文正元(1466)年~天正4年(1576)間の豊鹿島神社本殿創建棟札3枚に、次のように所在地として「武州多東郡上奈良橋郷」が記されています。

豊鹿島神社本殿棟札

豊鹿島神社本殿創建棟札 文正元年(1466) クリックで大

 奈良橋郷記載の豊鹿島神社本殿創建棟札 文政元年(1466) 

 表
   武州多東郡上奈良橋郷 本大旦那源朝臣憲光(みなもとののりみつ)
  奉造立鹿嶋大明神社檀一宇事        
   当別当梅満命姉 大工二郎三郎近吉

 裏 文正元年(1466)十月三日 筆者権律師□儀(花押)

豊鹿島神社本殿創建棟札・文正元年(1466)、改修棟札・天文19年(1550)、天正4年(15476) クリックで大

 これまでは、『新編武蔵風土記稿』など江戸時代の地誌に
 「武州多東郡上奈良橋村」
 と紹介されていました。また、豊鹿島神社社殿左側に置かれている日待石灯籠(元禄15年(1702)に
 「武州多摩郡 上奈良橋郷 井の窪庄」
と刻まれていました。これらのことから、芋窪地域が「上奈良橋郷」「上奈良橋村」と呼ばれていたことは知られていました。しかし、豊鹿島神社本殿が建設された中世に「上奈良橋村」という「村」があったのかどうかは問題視されていました。

 それが、豊鹿島神社本殿の創建棟札に「武州多東郡上奈良橋郷」の記載があることによって、現実的に「上奈良橋郷」が使われていたことがはっきりしました。棟札は直接、棟に釘で打ち付けられていて、創建当時の状況で発見されています。

中世の郷

 郷は近世の村が確立する以前は、狭山丘陵周辺では下図のように一定の地域のまとまりを表し、郷の中に村となるまとまりを含んでいました(現在の入間市)。

金子郷、宮寺郷など中世の郷の中に縄竹、三ヶ島、二本木などの集落が宮寺郷にまとめられている様子 クリックで大

奈良橋郷の位置と村

 上記のように、中世には、集落が丘陵の谷ッに散在する状況で、江戸時代のような一村を形成せず、散在する集落を広域的に「郷」でくくっていたようです。現在のところ、奈良橋郷は村山郷と宅部郷の間に挟まれた地域であり、具体的な区域は明確ではありません。

東大和市に存在した奈良橋郷と集落(後の村)との関係 クリックで大

 参考になるのが、地元の杉本林志氏が著した『狭山之栞』です。江戸時代末に現地を歩き、明治初年に発刊されました。この著作では
 奈良橋郷=芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村
 宅部郷=貯水池に沈んだ内堀、杉本、上宅部、丘陵南麓の狭山、清水、東村山市の下宅部
 としています。
奈良橋郷は更に上・下に区分されていました。
・上奈良橋郷を芋窪地域
・下奈良橋郷を奈良橋(含む蔵敷)、高木地域
 とすることも考えられます。

村に区切られた

 天正18年(1590)、豊臣秀吉が後北条氏を制覇、徳川家康の関東移封が行われました。これにともない、天正19年(1591)、徳川家康の直属家臣達が狭山丘陵周辺に配属されてきました。その際、家臣が統治する地域や石数などから郷は一定の区域に区切られました。村切りと呼ばれます。当時の様子は記録に残されていませんが、東大和市域では次のように5つの村が生まれています。

江戸時代初期、村切りによって作られた東大和市域内の近世の村 クリックで大

 奈良橋郷の明確な記録は豊鹿島神社本殿棟札に限られ、東大和市以外ではほとんど知られていません。これから、狭山丘陵周辺の中世史研究によって、明らかにされてくることを願っています。

 (2019.12.10.記 文責・安島喜一)

 谷ッに散在する集落

 中世の村・廻田谷ッ

 建武三年(1336年)の鐘(豊鹿島神社)

 豊鹿島神社本殿の棟札1(文正元年・1466)

  豊鹿島神社の歴史

  豊鹿島神社に関わる地誌の記録

 東大和市の歴史・中世