きつねの嫁どり(東大和のよもやま話)
狭山丘陵には多種の動物が棲み着き、人々と共生していたようです。イノシシは害をもたらすものとされていましたが、狐や狸とはユーモアのある交流が語られます。
村山貯水池に沈んだ石川の里(上貯水池の西端)に伝えられるのは「狐の嫁入り行列」です。村山貯水池のできる頃(大正初~昭和2年)です。
石川の里は柳瀬川の最上流で、狭山丘陵の湧き水が集まって清流となる谷筋にありました。見上げれば、丘陵の嶺々が連なっていました。物語はここに生まれました。
「昔、まだ石川の谷ツに電灯のつかなかった頃のことです。遠く東京の空にはネオンが明るくとてもきれいにうつって見えることがありました。大和村に電灯がついたのは大正六年のことでしたから、とても珍らしくて「あれが東京だべ」と空を眺めたものでした。その頃、
「きつねの火が通るでみろや、みろや」
といわれて貯水池の方向をみると、丘陵の尾根をポーッと赤い火がついたり消えたり、いくつもいくつも並んで動いていることがあったそうです。まるで嫁どりの時のちょうちん行列が歩いてくるように見えるのです。そしてふッと消えてしまうというのです。
こんな現象を村の人は「きつねの嫁どり」とか「きつねの行列」といっていました。山の尾根や原などによく見られました。」(東大和のよもやま話p171)
石川の谷は東へと長く次第に幅を広げ武蔵野の原野に連なりました。先史時代からの人々の生活がありました。村山貯水池の建設による二つの堰堤が築かれない前は東京方面の空がよく見えました。現在でも、下の堰堤の中央で東京スカイツリーを見ることができます。
一方、三方は峰に囲まれて、南麓に連なる尾根筋が懐に抱かれるように見えました。そこをチラチラと明かりの行列が行き来したのでしょう。
もう少し谷が広くなる下方の上宅部地域には「きつねの恩返し」が伝えられます。また、南麓の原にはモニュメントになって「きつねの嫁どり」の像が、少し気恥ずかしげに迎えてくれます。