大まかな歴史の流れ 4 中世2 南北朝~室町時代
1 新田義貞鎌倉攻めの時
新田義貞挙兵 元弘3年(1333)、 後醍醐天皇の倒幕の綸旨をもとに新田義貞が挙兵、兵を南下させました。義貞軍と鎌倉幕府軍は、小手指原(所沢市)、久米川(東村山市)、分倍河原(府中市)で相まみえました。
一進一退の状況が続き、5月22日、義貞軍が鎌倉に攻め入りました。一方、足利尊氏は丹波国篠村で倒幕の意思を表明後醍醐天皇側に付き、六波羅探題を陥落、鎌倉幕府は滅びました。
この間、東大和市域の人々も何らかの動きに巻き込まれたことが推測されます。具体的なことは明らかではありませんが「こさ池とかゆ塚」の伝承が残されています。
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武蔵武士の動向 注意すべきはその後の武蔵武士の動向です。新田義貞鎌倉攻めの時、武蔵武士は新田氏側につきました。しかし状況は変わります。建武政権確立後間もなくのことです。
建武2年(1335)11月、足利尊氏は建武政権に対し反意を示し、新田義貞が追討にまわります。今度は、武蔵七党は足利側につきました。武蔵武士は複雑な背景をよみながら行動していたようで、当時の村人はさぞ苦労が多かったであろうことが偲ばれます。
2 上奈良橋・宅部の名前が出てきた
上奈良橋村 『武蔵名称図会』は建武3年(1336)、豊鹿島神社に「奉撞鐘一口、鹿島大神宮神前、建武三子年三月十二日、武州多東郡上奈良橋村、井沢三郎源光義妻敬白」と銘された鐘があったことを伝えます。
記事についての信憑性が問題ですが、「武州多東郡上奈良橋村」の名前が出ています。「村」がこの時代に存在したかは疑問です。文正元年(1466)、豊鹿島神社本殿が創建されたときの棟札に「武州多東郡上奈良橋郷」の墨書銘が残されています。
宅部美作入道貞阿 貞治2年(1363)から応永7年(1400)にかけて、立川の普済寺でお経の印刷が行われて刊行されました。その中に、応安元年(1368)に助援者として宅部美作(やけべみまさく)入道貞阿の名が記されています。
宅部は村山貯水池の下堰堤に近いところから、西武線東村山駅付近までの広い区域で、東大和市域内は上宅部と呼ばれました。関連する人物として、健保2年(1214)、上宅部に建立された氷川神社の棟札に大旦那として記載がある石井美作(いわいみまさく)が考えられます。
3 板碑から追う東大和市域の中世
板碑 東大和市域を含め狭山丘陵には板碑がまつられました。秩父産の青石で作られた一種の塔婆とされます。故人の追善供養や自らの現・来世の安楽、村人たちの結衆を願うもので、東大和市内で106枚余が確認されています。
阿弥陀の種子 多くに阿弥陀の種子が刻まれ、浄土教の教えがひろまっていたことが偲ばれます。市内で最古は永仁2年(1294)、最新は天文11年(1542)です。これらを建てて供養する家族・集団が存在するようになりました。
山口氏の高清 貞治七年(1368)、河越氏が幕府、関東管領上杉憲顕に反乱を起こし、武蔵に平一揆と呼ばれる戦乱が起きました。河越氏は上杉軍に攻められ、河越館で落城の憂き目に遭いました。それに加わった山口氏の高清が自害を遂げたと伝えられます。位牌が瑞岩寺にあり、本願信阿大禅門 貞治六丁未年九月十八日 と書かれています。
忍阿名板碑 東大和にもこの年を刻んだ板碑が存在したことが記録されています。忍阿の名前が彫られています。また、先に紹介した宅部美作入道貞阿の名もあります。大和町史編纂に携わった川村喜一、杉山荘平氏はこれらの板碑から、「断片的な資料によっての類推」 との前提で東大和市域と山口氏の関わりを指摘されています。(大和町史研究7p39)貞治七年の板碑
1368年の年号は南朝が正平23年、北朝が応安元年を使います。にもかかわらず、宅部ではこの年になっても「貞治7年」の北朝年号を使用しています。意図的なのか否か、興味津々です。貞治七年板碑『狭山之栞』p32
4 村山郷の地頭に仙波氏
仙波氏 狭山丘陵南麓の統治者がはっきりしない中で、応安 7 年(1374)、一部が仙波氏の領地であったことがわかります。
8 月 9 日、足利氏満が発した御教書(命令書・指示書)に、村山郷の地頭職について仙波信綱の名が記されています。この時期、川越市に本拠を置く仙波氏が武蔵村山市周辺地域の領主であったことを示します。東大和市とも関係があったのでしょうか?
宅部下総入道と立河氏 上杉禅秀の乱が終わって間もなくの応永24年(1417)1月20日、関東管領上杉憲基が宅部下総入道に立河氏関連の土地の引き渡しに立ち会えとの命令を出した文書が残されています。
宅部の区域 宅部は東大和市の村山下貯水池に沈んだ地域から東村山市の西武線東村山駅に及ぶ地域です。従って、東大和市域とは限定できませんが、この地域に、時の為政者から他所の土地問題の処理に立ち会いをするよう求められ、立川市普済寺周辺の覇者である立河氏と関係のある人物が居て、活動していることを示します。
応永14年(1407)には、宅部に正福寺地蔵堂(国宝)が創建されています。
6 武蔵国がめまぐるしく動く中で、雲性寺、豊鹿島神社の本殿が創建された
大石氏、太田道灌 1400年代に入ると、所沢市久米の永源寺に大石氏が梵鐘を奉納(応永29・1422年)するなど、二宮(あきる野市)に本拠を置く大石氏の入間方面への進出が目立って来ます。また、太田道灌の活動が動きを早めます。そのような中で
・永享11年(1439)、雲性寺(奈良橋)堂宇建設、天正元年(1573)法印承永が再興と伝承されます。
・康正元年(1455)、足利成氏軍と上杉軍が高幡、立河、分倍河原で合戦しました。
上杉軍が敗北、武蔵国は戦乱の時代を迎えます。
・長禄元年(1457)、太田道真、道灌によって岩槻城、川越城、江戸城が完成しました。
かっての武蔵七党とは全く異なった武力集団が城を築いて根拠地としました。
この時期に、東大和市域内では芋窪に画期的な建設が行われました。
豊鹿島神社本殿創建 文正元年(1466)、現・豊鹿島神社本殿(芋窪)が創建されました。
創建当時の神社名は鹿島大明神で武神である武御加豆智命(たけみかづちのみこと)を祭神とします。
棟札に旦那・源朝臣憲光(みなもとのあそんのりみつ)の名が記されています。
東京都内で最古の室町時代神社建築物として東京都有形文化財の指定を受けています。
棟札には「武州多東郡上奈良橋郷」の地名が墨書されています。
東大和市域の芋窪から高木地域が「奈良橋郷」であったことが明らかにされました。
太田道灌村山に陣 文明10年(1478)、太田道灌が村山に陣して二宮の大石氏を攻撃しました。
これまでの武蔵国の統治者であった上杉氏からその家宰(かさい)が新勢力として統治者に代わる情勢が生まれました。村山の陣は武蔵村山市の真福寺、大将山が想定されています。
続く時代に関東の戦国大名となる北条氏が進出してきます。次に続けます。
(2018.01.20.記)
中世1 頼朝の旗揚げ~鎌倉幕府の終焉まで
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中世4 北条氏康・氏直~徳川家康