大まかな歴史の流れ 5 近世 1江戸時代初期
1徳川家康の家臣がやって来た
八王子城の落城 天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原城攻撃により、戦国大名の後北条氏は滅びます。東大和市の周辺では、6月23日、八王子城が前田利家、上杉景勝の攻撃により落城しました。家臣達はそれぞれの地域に帰り、農業に就くなどして、激動の時を迎えました。東大和市域から集められていた村人たちがいれば帰村したことでしょう。
徳川家康の国替え・家臣団の来村 秀吉は家康に、これまでの駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5か国、計150万石から、後北条氏の支配地であった、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野と下野の一部の7か国、計240万石の関東への国替えを命じました。
家康は天正18年(1590)8月新領内の各地に家臣を配属、翌・天正19年(1591)、正月から奥羽の葛西・大崎一揆の鎮圧に忙殺され、3月末に江戸に戻りました。
その後、驚くほど迅速に新たな地への支配を開始ししました。東大和市周辺では4月には八王子地区で検地を行い、5月に一部の家臣に知行の割当てを行いました。多摩、入間、新座にかかわるものでは、箱根ヶ崎、殿ヶ谷、三ツ木、中藤、久米、町屋、大鐘、堀口、三ヶ島等の村名が確認されています。
東大和市域に関しては資料が明らかではありませんが、同時期か或いは少し時期をずらせて、配属されたものと思われます。村に地頭がやってきた
また、三光院に天正19年(1591)11月付の徳川家康からの朱印状が残されています。同様に、豊鹿島神社、氷川神社(現清水神社)にも家康以降の将軍による朱印状が残されていることから、この時期、一斉にこれらの寺社領の安堵が行われたことが想定されます。
村切り 驚くことに東大和市域内では、これまで知られなかった村の名前が知行とともに明らかになりました。いわゆる村切りで、統治のため、中世の「郷」を分割し「村」を形成させたものと云われます。
東大和市域では中世の谷ッを中心に散在していた集落が左図のようにまとめられ、石高が決められて近世の村として出発しました。
地元に陣屋、馬で通勤登城 江戸が未整備であったことから地頭は地元に家族とともに居住しました。統治のために、陣屋を構えました。多くが旧来の地元有力者の家や土地を利用したとされます。江戸へは江戸街道を馬で通勤登城したようです。通った道が「江戸街道」でした。
江戸の整備、石灰の運搬・成木道
・慶長8年(1603)2月12日、家康、征夷大将軍の宣下をうけ、江戸幕府の開始、3月、日本橋が整備されました。
・慶長9年(1604)6月1日、家康、全大名に江戸城大増築の計画を示しました。
・慶長11年(1606)3月1日、江戸城本丸とその外郭工事が、西国に領地を持つ34家の大名に命じられました。
・慶長11年(1606)11月、幕府から、年寄衆本多佐渡守正信と大久保相模守忠隣を通じて、八王子に配属された代官頭大久保石見守長安に下記のような石灰供出の命令書が出されました。
「江戸城工事のため、御用白土(石灰)を上成木・北小曽木村、山根より取寄せる。御急の事であるので、三田領・加治領、御領・私領、道中筋より助馬を出し、滞りなく石灰を送ってくるように申しつける。・・・」
成木などで生産された石灰は、これまでの丘陵の裾野を縫うように走る村山道ではなく、南の原野の中を通る道で運ばれました。東大和市域内では現在の新青梅街道の位置で、奈良橋庚申塚を経由し、東京街道団地の北側を通って九道の辻から田無の橋場に至りました。成木道、江戸ミチ、江戸往還、青梅道などと呼ばれました。箱根ヶ崎から田無間は家が一軒もない一望の原野であったとされます。(地頭が江戸へ通った道図を参照ください) 江戸へ石灰を運ぶ道(最初の江戸街道・青梅街道)
2村の地頭
芋窪村・高木村 酒井極之助
近江国の鎌波(米原市番場)の出身。織田信長に属していましたが、元亀2年(1571)浅井長政に攻められ、落城後に武田信玄に仕え、天正10年(1582)、武田氏が滅びると徳川家康に仕えて、芋窪村に来ました。
・寛永2年(1625)或いは9年に墓地を高木村から江戸赤坂へ移しました。
・慶長6年(1601)、正保3年(1646)豊鹿島神社本殿の修理を大旦那、大施主として進めています。
奈良橋村 石川太郎右衛門
家康の祖父松平清康に仕えて以来の徳川家譜代の家臣でした。蔵敷村も併せて治めました。狭山之栞によれば、初代は関ヶ原の合戦で討ち死にしたとします。
寛永年間(1624~1644)に検地を行い、その検地帳が残されています。
三代忠重、四代忠総、五代矩重の墓石が雲性寺に残されています。六代からは江戸に移りました。
享保18年(1733)知行地を返上して、蔵米取りとなりました。
元文2年(1737)7月、上知し、幕府領になり、「宅部村」となりました。
清水村
・浅井九郎左衛門が延宝9年(1681)清水村から小石川へ墓を移しています。明治維新まで清水村の領主でした。
村の自治 地頭は江戸に移住した後も領地を幕府に帰属させるまでは、江戸市中から遠隔支配をしていました。村にはその役目を果たす村の長などがおかれました。やがて名主や組頭、百姓代などの制度が整備されます。
3雀も捕れない鷹場指定
家康は鷹狩りを好んだとされます。狩りを通じての地域の実態把握を行ったと考えますが、三代将軍家光の時代になると、江戸城周辺の鷹場を整備する形式で治安の取り締まりを強化します。
鷹場法度 家光は寛永5年(1628)鷹場法度を定めます。
・江戸城周辺、約5里四方を、一面的に支配の区別なく将軍家の鷹場とする。
沼辺・世田谷・中野・戸田・平柳・淵江・八条・葛西・品川の9か領54か村
・指定地域では、幕府の鷹匠頭以外の放鷹を禁ずる
御三家の鷹場 家光は寛永10年(1633)、将軍家の鷹場の外周、江戸城から10里四方を新たに鷹場に設定し、尾張・紀伊・水戸の御三家に与えました。
・尾張家 西 武蔵多摩・入間・新座郡(宝暦3年・1753の書き上げでは180ヵ村)
・紀伊家 北 武蔵埼玉・葛飾郡
・水戸家 東 下総
二重支配 指定された地域は、東大和市域の村々がそうであったように、当初から家康の直属家臣が配属された地域でした。そのため、家臣の領地(旗本領)、寺社の領地、そして幕府直轄領と分かれ三者が錯綜していました。この細分化された地域を鷹場という手法によって一元管理するものです。結果として
・各村々は年貢徴収や裁判については地頭や幕府の代官が行う
・鷹場の支配は御三家の鷹役が行う(雀も捕ってはいけない、案山子を立てるにも許可がいるほどの厳しさ)
という二重支配を受けることになりました。東大和市域の村々は尾張家の鷹場に指定されました。
次に続けます。(2018.02.03.記 文責・安島喜一)
大まかな歴史の流れ・略年譜5 近世
近世2 玉川上水・野火止用水の開削、細長い村
近世3 生産性の低い新田、農間稼ぎ
近世4 荒れる村