5近世・江戸時代2(東大和市の歴史・略年譜)
5近世(江戸時代2)
・1687(貞享4年)、第五代将軍徳川綱吉、生類憐れみの令。(『里正日誌』1p182)
鷹狩り、休止。
・1702(元禄15年)、たばこ禁令。(本田への栽培禁止・『里正日誌』1p211)
・1730(享保15年)、芋窪村の人々が芋窪新田(現立川市栄町周辺)を開発し、
新田内への玉川上水の分水を願い出る。
・1600年代末に、狭山丘陵の麓から玉川上水・野火止用水際までの開発を終わらせ、
・玉川上水を越えた地に、新しい新田を開発(芋窪新田・現立川市栄町周辺)をして、
・玉川上水からの分水を求めている。
・高木新田(国分寺市内)の開発と合わせ、当時の村人の活動の姿が浮かぶ。
・1731(享保16年)、後ヶ谷村百姓44軒中32軒が食料がなく飢え、年貢が納められない。
幕府に食料を貸して欲しいと要望。(『里正日誌』1p342)
・1731(享保16年)、奈良橋庚申塚庚申塔(道しるべ)建てられる
・1733(享保18年)、薩摩芋の栽培始まる。
「昨年種芋を下され、植え付けた薩摩芋の蔓が、ようよう生えてきた」と幕府に報告。
(『里正日誌』1p350)
・1742(寛保2年)、芋窪村の村人に御犬養育料の返還請求がされる。
この時代まで「生類憐れみ令」が影響している。
・1746(延享3年)、奈良橋村農道改連判状が残り、当時の古道の様子がわかる。
・1749(寛延2年)、奈良橋村から蔵敷村が独立したか?
・1761(宝暦11年)、猪や鹿の害を防ぐため、幕府に鉄砲の拝借願いを出す。
・1767(明和4年)、幕府から各村に郷蔵を建て、食料を備蓄せよとの命令が来る。
・1770(明和7年)、狭山丘陵周辺の村々が幕府に飢饉のため、食料を貸してくれるように願い出をする。
・1771(明和8年)、奈良橋、蔵敷、高木、清水、宅部、後ヶ谷、廻田村で、組合村をつくる議定書を定める。
他村から来た変死人や行き倒れ病人の経費負担割を定める。
・1772(明和9年)、2月、坂東・秩父・西国百ヶ所巡礼供養塔(道しるべ)(奈良橋村中)建立される。
雲性寺の前庭に移設。
・1775(安永4年)、狭山丘陵で大がかりな猪狩り。
・1776(安永5年)、青梅橋の道しるべ(庚申塔)建立される(小川邑講中)。
・1783(天明3年)、7月、浅間山が噴火。
・「飢饉で食糧が不足し、米価が高いから、藁(わら)で餅を作って切り抜けろ」
という通知が来た。
・1784(天明4年)2月28日、天明の打ち毀し・武州村山騒動。箱根ヶ崎狭山池に集合、
中藤村、高木村の豪商が打ち毀される。(『武州村山大変次第之事』)
・1788(天明8年)7月10日、「飢饉のための貯(たくわえ)に田螺(たにし)を拾い集めよ」の通知が来た。
(『里正日誌』2p390)
・1788(天明8年)2月14日「髪も藁にて束ねよ」の御触が来た。(『里正日誌』2p396)
・1791(寛政3年)1月、炭の買い出し途中、新町村で争い
・1800(寛政12年)3月、イノシシや鹿の害を防ぐため、鉄砲許可願いを出す。
廻り田村、清水村、後ヶ谷村、高木村、奈良橋村、蔵敷分
・1804(文化元年)、後ヶ谷村・馬頭観音(道しるべ 霊性庵にあり)
・1805(文化2年)、幕府、江戸近郊の農村荒廃のため、関東取締出役を設置。
・1807(文化4年)、蔵敷村太子堂創建される。
・1807(文化4年)、浪人取り締まり組合が結成される。
・1809(文化6年)、村山絣を創始。
慶性院住職が薩摩織りの切れ端を持ち帰り、荒畑五郎兵衛妻シモが模織りを試み生み出す。
・1819(文政2年)、清水村地頭浅井楯之助乱
・1821(文政4年)、円乘院、宝篋印塔が造立される。女念仏講
蔵敷村で村人が共同で大井戸掘削
・1822(文政5年)、蔵敷村で78人の餓え人発生、周辺村同様に飢饉。
・1823(文政6年)、杉本火災。西楽庵地蔵堂焼ける。(『狭山之栞』)
・1827(文政10年)、勘定奉行・関東取締出役から、治安の乱れ取り締まりのため、
寄場組合の結成を求められる。所沢寄場組合村を結成。
・1832(天保3年)、8月2日、芋窪村の酒井氏領で、課金に反対し農民、鉦・太鼓を打ち鳴らして反乱
・1833(天保4年)、天保の飢饉始まる。
・1834(天保5年)、芋窪村で子供相撲興行。
狭山丘陵の村々に打ち毀しの張り札が出される。青梅、所沢、扇町屋などが対象。
・1837(天保8年)6月、桃の実ほどの雹(ひょう)が降る。
・1838(天保9年)1月、芋窪、中藤村裸参り50余人。芋窪太神楽、獅子舞。
・9月7日、敵討ち供養塔が建てられる。
蔵敷村山王様の近くで敵討ちが行われ討った方の関係者が供養塔を建てた。
・1838(天保9年)12月10日、蓮華寺焼亡
・1842(天保13年)10月13日、「百姓は粗末な衣服をまとい、髪は藁で束ねよ」の御触れ来る。
(「百姓風俗之義御触」『里正日誌』6p56)
・1843(天保14年)、疱瘡はやる。
・1845(弘化2年)、芋窪村で香具師芝居(やししばい・臨時に小屋を設けての芝居)。
・1846(弘化3年)2月2日、杉本火災。三光院焼ける。(『指田日記』『狭山之栞』)
(2021.05.19.文責・安島喜一)