東大和市の明治の小学校3
建設当時の学校の姿は伝えられませんが、時代が下り、明治27年(1894)の頃になると様子がわかってきます。『東大和のよもやまばなし』は次のように語ります。
第一尋常小学校は芋窪の生活改善センターの所にありました。古い木造の校舎で、芋窪と蔵敷の子供たちが通いました。一クラスは三十人ほど、四教室ありました。
その頃の校長、石井以豆美先生はひげを生やされ、年中「篠ン棒」(しのんぼう)を持ち、校長先生自ら授業をされました。
今年八十六歳の木村さんは、小学生の頃、自習時間に遊んでいてそのムチでぶたれたことがあったうです。運動場は、豊鹿島神社の裏山の辺で、ここは子供たちにとって格好の遊び場、毎日にぎやかな声がひびいていました。
第二尋常小学校は雲性寺にありました。なにしろ校舎がせまく、教室は一つでした。お寺の大きな部屋が教室で、中央に黒板を背中合せにして区切り、生徒は学年別の二つに分かれました。二人の先生が同時に授業を行ないますと、間仕切がありませんので互の声がつつ抜けです。
今は貯水池になっていますが、当時、石川部落から学校に通った子供たちは一尺(約三○センチ)ほどの大雪が降ると半鐘を鳴らして雪かきをしました。自分の領分だけで、他はまだ雪が積っています。そこで男子は、松の木で竹馬を作りそれに乗って学校に行きました。女子はわら草履です。どちらも素足で行き、足袋は学校に着いてからはきました。
欠席もなく、成績優秀な生徒に男女二人づつ賞状が与えられました。賞状は郡役所までもらいに行くのです。親にとってもそれは大変名誉なことですから、喜んでその日のために着物を作ってあげました。」(『東大和のよもやまばなし』 p78~80)
(2016.12.10.記)