狭山村(さやまむら)の誕生(東大和市・地租改正・明治8年)

狭山村(さやまむら)の誕生(地租改正・明治8年)

 狭山神社周辺から霊性庵、東邦団地、西武団地、村山貯水池一帯が狭山村をつくった旧地です。

狭山神社全景 参道は村山貯水池に沈んだ地域への主要交通路であった
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 貯水池に沈んだ地域に「宅部村」、丘陵の谷ッに「後ヶ谷村」がありました。
 明治8年(1875)3月、この二村が合併して「狭山村」が生まれました。
 その背景には明治新政府の地租改正が色濃く影響しています。

・宅部村は御霊神社(御霊明神・1063年) をまつり、開発者に鎌倉権五郎景政の家臣寺島小十郎の伝承を持つ中世からの村です。
・後ヶ谷村は狭山丘陵の峰をまたいで南北に広がる地域で、旧家である石井家(後に杉本)は三光院(1112)、氷川神社(1214)の創立に関わる伝承を伝えます。
・後ヶ谷村は天正19年(1591)、徳川家康が狭山丘陵周辺に直属の家臣を配置した時に名称が出てきます。
・宅部村は、内堀地域に江戸時代初期に設定されました。

中世の宅部・後ヶ谷の状況 クリックで大

合併の背景 

 この両村が合併しました。その背景は
・形式的には2つの村に分かれていましたが、「田、畑、山林、民戸、みな、ことごとく混錯」と云われるように、入り交じっていました。
 一族や同族者の新規開墾や分家の積み重なりによるものでした。
 現在の市町村からは想像できませんが、江戸時代の村は小規模な集落が寄り集まってできていました。明治になって、名主は戸長と変わり、年貢は税となりましたが、旧来からのしきたりや仕組みは残り、下記のような問題がありました。
 
・一つの村でありながら、旧幕府の支配地と旧旗本の支配地が入り乱れている
・そのため、戸数が30戸や50戸でも、それぞれに村役人が置かれている
・村の運営費用が嵩んでいる
・狭い地域で耕地や民家が入り乱れ、地番が複雑になっている
・租税や戸籍の上で支障がある

狭山村が出来た頃の村の様子 江戸街道以南は武蔵野の原野を新田開発した畑地
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・そこへ、新政府から、明治6年(1873)12月、地租改正の必要上「地番を振る地図をつくるべし」との達しが来ました。
 村人は面食らったでしょう。あまりにも、宅部と後ヶ谷の入り混みが激しく、整然とした地番を付ける作業は困難でした。
 やむなく、両村を一ヶ村として、全く新規に整理された地番を設定する案が浮上しました。
 これを契機に、合併問題が急速に論議の対象になったと伝えられます。

 明治8年2月25日、
・両村の小前一同は、熟談の上、
・両村の農民87人の蓮印をもって、
・両村を廃止し、新たに狭山村を設ける「村名改称合併願」を
・神奈川県十一大区十小区会所に
 出願しました。

 区の戸長、副戸長は、この願いを神奈川令中島信行宛に提出し、翌3月、県令はこれを許可しました。
 後ヶ谷・宅部の二村は解消して、狭山村が成立しました。
 東大和市域の村々の中で合併して新しい村となったのは、この狭山村だけです。
 「狭山」の名については、東大和市史では「地形的な特徴から」(p255)としています。
 狭山村の誕生をもって、東大和市域の村は
  芋窪村、蔵敷村、奈良橋村、高木村、狭山村、清水村の六ヵ村になりました。
 
狭山丘周辺の村の合併

 狭山村の成立と同じ時期、狭山丘陵周辺では山口村と上山口村が生まれています。
 合併の背景は様々と想定されますが、この時期、狭山丘陵周辺で合併の画期があったことが伺えます。

狭山村が生まれた明治8年の狭山丘陵周辺の村の動向 
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  その後も新しい村づくりは進められ、明治21年(1888)市制・町村制が公布されました。全国で7万1000余あった市町村が1万5000余に整理されます。新しい動きについては別に記します。
 (2018.10.02.記 文責・安島喜一)

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