相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立

相次ぐ蔵敷村・小川村寄場組合の成立(明治2年・1869~3年・1870)

1県が所管する村の管轄替え

 明治2年から4年にかけて、またまた、村人達は所属県の騒動に巻き込まれます。県が所管する村の管轄替えです。

明治2年、県の所管する村の管轄替えによる東大和市域の村々 
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 東大和市域の村々が属した韮山県と品川県は、その県域が複雑に入り混じっていました。そのため、所管する村の管轄替えが行われました。
 ・明治2年(1869)2月、品川県に属していた芋窪村と高木村の旗本領区域が韮山県に移管されました。
 ・明治2年(1869)4月、韮山県に属していた清水村の江川太郎左衛門所管区域(新田分)が品川県に移管されました。

 その結果、東大和市域の村々は
 ・韮山県 芋窪、蔵敷、奈良橋、高木、後ヶ谷、宅部村
 ・品川県 清水村
 と2県に整理されました。

 里正日誌は具体的に、明治2年(1869)2月、品川県下の芋窪村と高木村の旗本領区域が韮山県に移管された区域は、4月10日に沙汰があり、6月28日頃品川県から韮山県が受け取ったことになっています。高木村分は65石、芋窪村分は165石と石数が記録されています。

 この整理により、芋窪村・蔵敷村・奈良橋村・高木村・後ケ谷村・宅部村の六か村は韮山県に、清水村だけが品川県に属することとなりました。年貢の割付、助郷の負担など、相当に混乱したはずです。さらにややこしくしたのが今回紹介する寄場組合の再編でした。

2寄場組合の再編

 東大和市域の村々は、下図のように、文政12年(1829)につくられた所沢村組合と拝島村組合に属していました。所沢村組合は多摩・入間の郡界を超えて、現在の所沢市や東村山市、清瀬市などと広域な区域を構成していました。一方、芋窪村は拝島村組合に属していました。

文政12年、文政改革村組合の村々 
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 明治2年(1869)、韮山県、品川県は次のように寄場組合を整理をすることになりました。
・品川県=寄場組合を廃止して番組制度に変える
・韮山県=寄場組合の再編成を行う
◎この再編成により、従来から属していた寄場組合も整理の必要が生じます。そこで、二つの動きがありました。

(1) 蔵敷村寄場組合

 第一に、明治2年(1869)、所沢村寄場組合から分離して「蔵敷村寄場組合」が結成されました。里正日誌(10巻p347)によれば
 蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷、清水、廻り田、野口、粂川(久米川)南秋津、野塩、中里、日比田村の13ヵ村の名が上げられています。
 結成の過程などは調査中です。

 面白いことに、この組合構成村はかって、元治元年(1864)に農兵に関する組織である「上新井組合」を再編成して「蔵敷組合」(蔵敷、奈良橋、高木、宅部、後ヶ谷、廻り田、野口、粂川(久米川)南秋津、野塩、日比田村)を設置しましたが、その際の構成村に、清水村と中里村が加わって設置されたことが辿れます。これらの村々には維新後も深い結び付きがあったことがわかります。

明治2年、所沢村寄場組合から蔵敷村寄場組合の分離 
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(2) 小川村寄場組合

 更に、韮山県では、新しい動きが起こりました。小川村寄場組合の設立です。

  明治3年(1870)3月、次の村々が「青梅街道の通過点(脇往還継場)であり、役人や多くの人々が通行(御役々様御通行)する場所であるので・・・」を理由として
 ・蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村=東大和市域 
 ・廻り田村、廻田新田=東村山市市域
 ・小川村、小川新田、榎戸新田=小平市区域
  の10村が、新しく「小川村寄場組合」を設立したいと組合議定書を定め、

 明治3年(1870)3月8日、次の12ヵ村で「小川組合設置願」を提出しました。(里正日誌11p67~68)
 元田無組合の内=小川村、小川新田、榎戸新田、平兵衛新田、上谷保新田、廻り田新田
 元蔵敷村組合の内=蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村、廻り田村
 で小川組合を設置したいとする願いです。同年、願いは許可され、小川村寄場組合が成立しました。

明治3年、小川村寄場組合の構成 
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 近くの村々で広域な地域を形作って発展しようと云うことはそれなりに意義があったと思われますが、またもや所属地域の分断です。
 東大和市域の村々は次の3つの広域的団体に分かれ分かれに所属する形となりました。 
 ◎蔵敷村、奈良橋村、高木村、宅部村、後ヶ谷村は小川村組合
 ◎芋窪村は従前の通り拝島村組合
 ◎清水村は品川県が番組制度を採用したことから、品川県15番組
 図にすると、東大和市域の村々は、下図のように韮山県小川村寄場組合、韮山県拝島村寄場組合、品川県15番組とそれぞれ別の広域団体に属することになりました。

明治3年、寄場組合の再編による東大和市域の村々の所属状況 
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 文政12年(1829)に寄場組合を設けた際の目的は荒れる農村に関東取締出役を設置して対応することにありました。その関東取締出役は慶応4年(1868)8月に廃止されています。にもかかわらず、寄場組合の区域は変化しながら続いています。

 その理由は、新たな役人の往来、宿泊、組合総代の集まり、囚人飲料・番人・駕籠、捕亡者関連費などを広域に負担する必要がありました。さらに、税制を初めとして制度の異なる地域に属して、村人はさぞ混乱したことと思われます。明治初年の状況を語る一面です。

 しかし、一村の中で2県に分かれていた状況が解消され、救われた面もありました。
 なお、清水村、野口村、久米川村、南秋津村は明治5年(1872)4月から品川県管轄から神奈川県となり小川村寄場組合に加入しました。
 しかし、同年11月には、神奈川県で寄場組合は廃止されました。

 そして、明治4年(1871)4月から設定された戸籍区の戸長・副戸長を区長・副区長としました。(小平市史近現代編p35)
 なんと、その戸籍区は寄場組合と同じ区域が用いられました。
 まだまだ、ややこしさは続きます。

   (2018.09.23.記 文責・安島喜一)

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